私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 私どもが生まれ育った唐津は風光明媚な土地です。古代より大陸の文化をいち早く受け入れました。海、川、山の恵みを享受して、美しい自然と豊かな文化、風土にふさわしい産業等々、貴重な“宝”に恵まれています。そういう“宝”を後世に伝え、継承したいと唐津商工会議所が“唐津探訪”にまとめました。その産業部門を担当しましたが、徳川時代から明治にかけて盛んだった産業に、石炭採掘、捕鯨、唐津紙があげられます。その中のひとつ、捕鯨については宮島家も明治維新の前後にかかわっていました。
 
宮島家と捕鯨業
(一)六世傳兵衞
 宮島家の祖先をたどっていくと、その事蹟が明確になっているのは、七世傳兵衞の祖父六世傳兵衞(後、清左衛門と称する)からである。
 六世傳兵衞は水野藩の浪人、新町の近藤家より養子として宮島家に入籍。七世傳兵衞の祖母トヨとの間にツル、ヨシの二女をもうけた。いつの頃からか宮島家は、水主町にて魚類商兼料理屋を営んでいた。その頃、十人町に小笠原家の紙方役所があり、その御用達として、料理、仕出しをしていたという。
 しかし、六世傳兵衞は、進取の気性に富み、この家業には満足せず、航海業を営む一方、文政、天保の1830年頃には、北波多村岸山で石炭の採掘をする等活躍したが、成功せず、雄図空しく、万延元年(1860)、当時13歳の孫、七世傳兵衞に家業をゆずり、元治元年(1864)、没。しかし、その志は七世傳兵衞に継承され、その後の宮島家の基礎を築いていく。
宮島家家系図
(二)七世傳兵衞の父、内山喜兵衛
 六世傳兵衞には、男子がなく、長女ツルに新堀の内山家から、喜兵衛を養子として迎え、傳二郎(後の七世傳兵衞)と恒吉の二男をもうけたが、残念ながら、喜兵衛は二人を残して、内山家に復縁した。嘉永5年(1852)、当時、七世傳兵衞は8歳であった。
 この間の事情を七世傳兵衞は自ら次のように書き残している。
 
 父(喜兵衛)は、航海業の人だったので、呼子殿の浦で「福寿丸」という船を新造し、航海業をはじめた。その目的は御領地(天領、徳川幕府直轄地)である平山上村、平山下村で採掘した石炭を加工した焼石炭(ガラ)を買い集め、筑前(福岡)地方に販売していた。
 その当時、船宮に唐津藩船役所があり、この役所の仕組みにて(役所が管理していたという意味か?)、相知村字押川で生産した「押川瓶(かめ)」[註]を、相知鷹取工場から積込、福岡へ船を廻し、かめ代を取りまとめていた。
 
[註]
田中善太夫という人が明和12年に「押川がめ」の製造に成功する。水、酒、醤油、穀物、染料の貯蔵容器として需要があり、死人がめとしても使用されていた。(相知町史より)。かめを焼くために唐津炭田の石炭が使用されていた。
 
 この押川かめの販売で利益があったのだろうか、喜兵衛はこのお金で京町の糸屋、草場治平氏が平戸五島で始めた捕鯨組に参加し、「福寿丸」とともに五島に航海したまま、3年間唐津に帰省しなかった。
 このため、六世傳兵衞は、水主町の任侠(目アカシ)茂作とともに、音信不通の喜兵衛を連れて帰る。途中、呼子加部島片島の中沢(豆腐屋[註])宅に喜兵衛を預けたまま六世宮島傳兵衞は、ひとり唐津藩船宮役所に対する処置を相談すべく帰唐した。
 しかし、この間に、喜兵衛が五島に渡ったことについて、内山の祖父(喜兵衛の父)と六世傳兵衞の間に争論となって決裂、そのために離縁、復籍することになった。福寿丸は、船宮役所に引揚げられたが、高浜師匠(七世傳兵衞幼少の頃の寺小屋の先生)の尽力により、宮島家に返還された。
 
[註]
七世傳兵衞の自伝には「親族中沢(豆腐屋)」とあり、親族が内山関係か、宮島関係かは不明。中沢家は、近年まで豆腐業を営まれていたとのこと。呼子大橋を渡り、片島の船着場へ降りた付近で現在も中沢家は存続されている。後年になって、その中沢家に私の母方の伯母の夫(播磨屋の金丸源一氏)の弟、豊次郎氏が中沢家に養子として入籍されたとのこと。(神田歳成氏談)
 
 以上、七世傳兵衞の自伝には、父内山喜兵衛の一生が淡々と述べられているが、冷静にそのあとをたどってみると、石炭ガラや押川瓶を売ったりと活発な活動の様子がうかがわれる。捕鯨にあたっては、船もろとも3年間(安政1~3年頃か)、家族をもかえりみずという程の熱中ぶりである。当時の捕鯨産業は“ベンチャービジネス”として大きな魅力があったのだろう。
(三)七世傳兵衞と捕鯨
 七世傳兵衞は、8歳にして父内山喜兵衛が宮島家を去り、17歳の年(元治元年、1864年)に祖父、六世傳兵衞(清左衛門)が没したことにより、幼にして「富田家」の家を継承することになる。
 自伝には「是より母と共に大いに活動す」と簡潔に、その熱意の程を記している。
 翌、慶応元年(1865年)後は家業の“富田屋”に満足せず、「18才、小川島捕鯨組起こり、仲買人となる」(自伝)と鯨への意欲が芽生える。
七世傳兵衞自伝
 
唐津の捕鯨について(「唐津探訪」より抜粋)
 唐津の捕鯨は元和の初期(1615~1616)に、寺沢志摩守広高が紀州から漁夫を雇い入れ、捕鯨を導入。実際に小川島を拠点として捕鯨をはじめたのは、中尾氏といわれている。中尾氏は代々甚六を名乗り、3代目のころに最盛期を迎え、最初は突取法だったのが、宝暦年間(1751~1764)には網取法へと技術が進歩していく。捕鯨に参加する人数は一組で600~700人、捕獲した鯨をさばく人が数百人。江戸時代でこれだけの大規模な産業はなかったであろう。
 捕鯨は大きなリスクがあったにもかかわらず、莫大な利益を生んだので、「鯨一頭捕れば七浦潤う」とか「中尾さまには及びもないが、せめてなりやた殿様に」ともいわれるほどの繁栄ぶりだった。
 中尾組の捕鯨の拠点は小川島だったが、中尾家の屋敷は呼子に構えていた。その屋敷は、現在、唐津市の重要文化財に指定され一般に公開されている。
 捕鯨は多大な利益を生んだので運上金(営業税)が期待でき、唐津藩も奨励していた。
 しかし、藩の力が衰え、明治となってその保護が解かれると捕鯨は衰えていく。
 
 七世傳兵衞は、父喜兵衛が捕鯨に熱心さのあまり、宮島家を離れた経過は十分に承知していただろうが、捕鯨という産業はやはり血気盛んな18歳の若人をひきつけるものがあったのだろう。しかし、次のような理由で手をひくことになる。
 
 自伝によれば、(右、自伝原文参照)
 理由
 「小川島捕鯨業は、当時字大石町、江川弥惣平(弥三平)という商人あり、旧藩時代は名誉ある商人なり。質商なりしも不如意となりしより最後の決議として、この業(捕鯨)を起こしたり。結局不結果となり、我は仲買人なれば損失なしの結果なり」
 と説明しており、その後は、一切記録はなく、あっさりと断念した様子がうかがえる。
七世傳兵衞自伝
(四)江川弥三平という人
 七世傳兵衞が捕鯨の仲買人となった手がかりは、自伝によると、大石町出身の「江川弥三平」を通じてであろう。傳兵衞の伝記には「弥惣平」とあるが、おそらく同一人物と推測される。
 数年前、松浦史談会「末盧国」第1巻、371頁の「小川島捕鯨、明治時代の浮沈」と題して、岩松要輔氏の論文を読むことができた。
 
 明治になってからの捕鯨業
 小川島の捕鯨営業を請け負ったのは、壱岐の土肥、柴山、布屋氏、呼子の中尾氏、唐津の常安、草場氏、名護屋の山口氏などがあり、藩が直接経営したことがあった。
 明治になって、元年は中尾組、2年は唐津の江川氏、3~4年は唐津藩庁手組、5年は江川氏が請け負い、6年は江川氏の資力が乏しく休業となり、7~8年は中尾氏と小川島々民共同で行われたが、器械不十分で捕鯨高は6頭。9年は営業するものなく、10年には、中尾氏が中心となって営業したが4頭となってしまった。・・・・・・明治になってさびれたのは、明治4年の廃藩置県後、藩よりの出資金がでなくなったためと考えられる。
 
 以上、岩松氏の明治になってからの捕鯨業の推移、江川弥三平の動きと傳兵衞の自伝の内容はほぼ合致しており、明治になって急速に衰えていく。
 さすがの170年の歴史を誇った中尾家も明治10年に断絶することになる。
 その後、小川島捕鯨株式会社が創設されたが、ノルウェー式近代捕鯨南氷洋の母艦式捕鯨のため、西海での捕鯨は1961年で終わる。
 ちなみに、偶然にも数年前、唐津市浄泰寺のお墓の中で「江川弥三平夫婦の墓」と遭遇した。立派なお墓の礎石には辞世の句が彫り込まれている。どんな方だろうかとしばし佇んで考えていた。合掌。
 徳川時代に繁栄した捕鯨業は今や小川島の鯨見張り所、中尾家屋敷等と、松浦漬で当時を偲ぶだけとなった。
 幸いに、この度「鯨組主中尾家屋敷」が開館。家屋敷、捕鯨に関する用具記念品、資料等が集められ、当時の捕鯨文化に接することができる。
 どうか、一度、ご来館の程をお願いいたします。
 
鯨組主中尾家屋敷(唐津市呼子町)
 
呼子町加部島の鯨の水揚げ(大正時代)