私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 秋たけなわとなりました。
 国会の補正予算、大震災復興の財源の論議もたけなわです。
 
 
増・減・税 古今
(一)「税」とはなんだろう。
 いつ頃から、為政者は「税」を自覚したのだろうか。
 
 まず、税の字は  と  。
  は、稲、いね、穀物の総称。
  は、音を表し、「分けて取る」の意の語源。
 小作人の収穫から刈り分けて納めさせること。
 以上のように、税という字は形成文字、税金を意味する。
 
 租は  と  。
  は耕作の意。公田を耕して、できた  (いね)を租税として納めさせたことから、みつぎ(貢)、ねんぐ(年貢)の意となる。
 
 その「税」が、明確に書かれた史料としては、四書五経の中の「春秋」という本に「周の宣王15年(BC.813)初めて畝に税す」とある。税率はほぼ1割を原則としたという。
 「春秋」という書は、孔子の祖国「魯」という国のBC.722~BC481の政府の公式記録を、孔子が編纂したものと言われ、そのまま歴史の年代として、春秋時代と称したり、あるいは簡潔に表現することを「春秋の筆法」というように使われている。
(二)論語の中の租税問答 顔渕第12
 その孔子の言行を弟子たちがまとめたのが論語である。ご存知のように、「仁」を中心とした、道徳的言辞が多い。その中にあって、税制、財政のことにふれた一節がある。「顔渕第12」である。
 
 魯の哀公が有若(孔子の弟子)に尋ねた。
 「今年の魯国は、不作で財源不足である。どうして補ったらよかろうか。」と。
 有若はかしこまってお答えする。
 「どうして、10分の1をとる税法(徹【てつ】、という)に改正しないのですか。」
 哀公は、こう答える。
 「(現在でも)10分の2を取り立てても、まだ不足。10分の1にしたらどうなるだろう。」
 若有は、再びかしこまって答える。
 「人民たちの生活が足りていれば、王さまが、いったい誰といっしょに足りないと言われるのですか、人民の生活が足りないならば、王さまは誰といっしょに足りると言われるのですか」
 
 この問答についての解説を総合すると、
 古代中国において、周の武王は、西暦紀元前(BC)1300年頃、殷の紂王を滅ぼし、黄河の中下流域に都を置き、その後約500年間統治を続ける。しかし、BC770頃から、その力が衰え、中国全土に、約12の中小の都市国家が興り、それぞれが覇を競うことになる。
 そのひとつに、孔子の祖国、魯があった。
 この問答があった頃、魯は隣国の斉との戦争で疲れ果て、さらに凶作が重なり、国の財政は極端な赤字に悩まされていた。時の王、哀公は従来の10分の1の税率からすでに10分の2に引き上げており、しかももう一度引き上げようと考え、有若(孔子の弟子)に質問したのである。
 これに対して、有若は、儒教の本道である「仁」を基本とした「君民一体、百姓富めば、君(王)富めり」であると素気なく答えているのだ。
(三)減税
 この論語、顔渕第12の一節については、論語を研究する人によって、その解釈は、微妙に喰い違っている。
 一般的には、「仁」を基本とする儒教だから、税を軽減して、「民を富ませれば君も富む」の金言をそのまま素直に賛美する。
 しかし、もう一歩、現実に即した考えがある。破綻寸前の国家が、さらに税収を減ずればどうなるか、長期的には有若の回答は、首肯できるが、現実の施策がなければ、単なる“書生論”になりかねないと指摘する説もある。
 さらに、明治の先進的な実業家、渋沢栄一は、顔渕第12の「有若」の回答には、やや批判的に以下のように論じている。
 
 「周の時代に、税を10分の1と定めてから、魯の哀公が増税策を計画している時代まで約600年が経過している。その間、税率は10分の2に漸増している。そして今や、四隣に敵あり、侵略の危機にさらされているとき、国費の増加は必然ではなかろうか。・・・しかるに、600年前の税法にかえれというのは、あまりにも矯傲な言ではなかろうか。・・・この問答の是非曲直を今にわかに判じ難い。」と。
 さすがに、明治時代の資本主義的経営、・・・近代日本の経済的基礎を築いてきた実業人であり、論語の解釈にも冷静、鋭いものがある。さらに考察を重ねる。
 「孔子は当時、魯の指導者たちに対し、魯の税率が10分の2であることに、『識らず』、俺は知らんよ、反対だよとの意思を表明していた。その結果は史記によれば『魯は孔子を迎えることができず、孔子もまた仕えようとしなかった』となっている。」
 渋沢栄一は「魯という国と孔子の思惑をどう判断するかは、読者にお任せする」と述べている。
 
 しかし、渋沢栄一は、さらに、こうも述べている。「孔子、孟子は直接、政治、統治にあたっていないのだから、批判の立場にあって、諮問に答えているのであって、『民富めば、君富めり』は、やはり、金言である。古今東西の名君賢相の政治は、わが国の仁徳天皇の『民の竈(かまど)は賑わいにけり 』へと引き継がれている。」と。
(四)今からの日本を見すえて
 「論語(顔渕第12)」の問答からは、二千数百年の年月が流れている。それなのに、今なお10%か20%かと同じような増減税の議論は相変わらず延々と続いている。
 現在の日本は「魯」と同じく、現実の経済は構造的な不況の中で、さらに東日本大震災に襲われ、以来約7ヶ月。この重大な危機を乗り越えるべく、今からの日本経済を左右する重大な政策は早急に決定されねばならない。
 その財源をどこに求めるか。
 増税か、減税か、国債発行か。
 
 昭和20年、敗戦からの復活は、起死回生策の傾斜生産方式、財政引締めのインフレ収束のドッヂライン、朝鮮動乱ブーム、55年体制スタート、重化学工業を中心とした2616件の技術導入、所得倍増計画・・・未曽有の好況へ。
 戦後の復興は、全国民の努力、勤勉とあいまって、成功、その評価も高い。
 
 もうひと昔、大正末期までさかのぼる。
 第1次世界大戦によって、日本経済は高成長をとげる。これは多分に戦争に便乗した火事場泥棒的であったために、大戦が終了し、各国の経済が復興すると、輸出市場を失い、反動として大正9年には恐慌に襲われる。
 その不況もおさまらぬうちに、大正12年9月1日、関東大震災に見舞われることになる。
 このときの緊急措置として、9月27日政府は「震災手形割引損失補償金」という勅令を発布する。その内容は、
 「震災地関係の手形を日銀に再割引させ、それによって日銀に損害が生じた場合には、1億円までの範囲内で政府が補償する」というものであった。
 この措置は、緊急の措置であっただろうが、震災が原因でない手形まで持ち込まれ、2億円へとふくれ、次々と返済できない手形がふくれあがり、残存し、「財界のガン」と言われ、昭和に入っての金融恐慌の引き金となる。
 その後の日本は、昭和の大恐慌に追い込まれ、ファッショ化が進み、満州事変、支那事変、太平洋戦争へとなだれ込む。
 
 ここまで顧みると、大事件の事後処理、復興の措置は国家の前途を左右することになる。
 冒頭の論語の問答は、税の増税、減税に限られただけのようであるが、実は大きな問題を抱えているのである。
 この数ヶ月の政府、衆参両院の立法府の決定は、今後の日本の国家の命運がかかっている。国家、百年計を念頭に、慎重かつ大胆な施策による新しい国のかたちを明示して頂きたい。
 国民も亦、苦難に堪え、頑張ろう日本!
参考文献
 「角川漢和辞典」 貝塚茂樹 編
 「字通」 白川静 著 平凡社
 「成果の名著3 孔子・孟子」 貝塚茂樹 著 中央公論者
 「論語」 金谷治 訳注 岩波文庫
 「中国古典道4 論語(中)」 吉川幸次郎 著 朝日文庫
 「論語新釈」 宇野哲人 著 講談社学術文庫
 「論語講義(四)」 渋沢栄一 著 講談社学術文庫
 「日本の歴史24 ファシズムへの道」 大内力 中央公論社