私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 日本の交通の中心、東京駅の復元作業の完成が近づいてきた。
 わが郷土、唐津の出身、辰野金吾が手掛けた傑作として、再び、東京駅が脚光を浴びるだろう。その製作者、辰野金吾も再評価されることだろう。
 
東京駅、辰野金吾家の人々
(一)東京駅の復元
 4月13日、愚妻ともども、上京。
 銀座へ出ようと思ったが、少し時間があったので、ふと東京駅の復元はどの程度進んだかなあ、と東京駅、丸の内側へ降り立ち、振り返り、東京駅の屋根を仰ぐ。
 あの独特のドームが曇り空ながら、くっきりと姿を現していた。しばし、立ち止まり眺める。
 周囲は、近代的な高層ビルが屹立する中にあって、堂々と重厚な存在感を漂わせている。
東京駅
 
(二)辰野金吾にかかわる人、おふたり
(1)御令息「辰野隆(ゆたか)」
 言わずもがなだが、東京駅は郷土、唐津藩出身の辰野金吾の設計、施工、大正3年(1914年)に完成している。
 戦災を蒙った東京駅が復元されれば、新しい名所として、脚光を浴びるだろう。ひいては辰野金吾の評価もまた高まることになる。
 辰野金吾については、すでに多くの人々が研究されている。
 しかし、私の記憶をたどっていくと、不思議にも御令息の辰野隆(ゆたか)の方を早く知ったような気がする。
 昭和21年、終戦直後の年に、幸運にも福岡高等学校、文科丙類(フランス語)に入学した。当然、フランス語、フランス文学の権威であった、辰野隆(ゆたか)を意識することになる。その後、その父親、辰野金吾が唐津出身とわかった。
 フランス語を少々、齧ったものの、今はほとんど忘却の彼方ながら、辰野隆の名前は忘れず、数ヶ月前、彼の名随筆“忘れ得ぬ人々”(講談社文芸文庫)を、本屋の店頭にみつけ、読み返していた。
 
1.年譜
 その略歴はいまさらながら立派、まさにエリートコースである。
明治2年 東京にて父 辰野金吾、母 秀子の長男として出生
明治33年 東京府立第一中学(現日比谷高校)入学
明治38年 東京第一高等学校入学(現在の東大教養学部)
明治41年 東京第一高等学校一部丙類(フランス法科)卒業
明治41年 東京帝国大学法科入学
大正2年 東京帝国大学法科卒業、引き続き、文科、フランス文学部入学
大正5年 東京帝国大学文科、フランス文学部卒業
同大学院卒業
 以後、大正10年の渡仏まで、19世紀フランス文学を研究する。
大正9年 東京帝国大学文学部 講師
大正10年    〃  助教授
大正12年    〃  フランス語フランス文学講座の初代担当者となる。
 昭和23年退官まで、フランス文学を講義し、同講座から渡辺一夫、小林秀雄、中島健蔵、今日出海、三好達治、中村光夫、森有正等の多数の異才を輩出する。
昭和6年 東京大学文学部教授となる。 
昭和23年 東京大学を定年退職する。
 
2.翻訳、評論
●翻訳としては、シラノ・ド・ベルジュラック、フィガロの結婚、孤客(モリエール)等々、多数。
●評論としては、仏蘭西文学(上・下)、フランス文学の話、フランス文芸閑談、ボードレール研究序説、等々。
 
3.随想
 随想集は、現代のエッセイストとして名声が高く、その分野はすこぶる多方面にわたる。
 とくに「忘れ得ぬ人々」は多くの方々に読まれ親しまれている。
 辰野隆の交友範囲は広く、深い。
 谷崎潤一郎とは、東京府立一中では同窓、同クラスとなる。潤一郎の群を抜いた秀才ぶりに驚き、尊敬する気持ちを卓越した文章で語る。
 幸田露伴とは、数回の座談会をともにして、
 「当日は、谷崎、和辻の両君をはじめ、露伴先生をめぐって閑談するのを沁々悦ぶ人々のつどいでもあったから、且つ飲み、且つ語る一座には藹々たる和気が自ら醸し出された。・・・座談の果て・・・酔余の雲烟を色紙に揮われた。僕の頂戴した句は『鯉釣りや 銀髯そよく 春の風』」
と翁の話に聞き惚れている。
 
 夏目漱石は、辰野隆の結婚披露宴に新婦 久子さんの招待客として出席されている。そんなご縁にもかかわらず、漱石は当日の席上の落花生、その他が原因で、胃を病むこと19日後、逝去されている。
 辰野隆は、露伴、鴎外、漱石、潤一郎を近代日本の文苑における四天王と称しており、「忘れ得ぬ人々」には、これらの方々との交友関係が尊敬と愛情の念をこめて、巧みに描かれている。
 
●辰野隆の人間性は、まことに幅が広い。
 先に述べたように、一中、一高、東大と当時の最高の学生生活を送っているが、学業とともに、スポーツが万能のようである。一中時代は鉄棒、一高、東大では中距離で活躍され、体操もうまく、唱歌も好き・・・と万能だった。
 スポーツ関係の随筆として、「スポーツ閑談」(昭和11年刊)、昭和8年中央公論に「スポーツと勉学」を発表している。
 
 さらに、奇異に感じられるかもしれないが
●府立一中時代には、相撲愛好家だった父 金吾の指示で毎日両国の相撲部屋に通い、現役力士の稽古を受けたというまれな体験をもっている。
 この体験があってか、昭和25年、大日本相撲協会の横綱審議委員会が発足したとき、その委員を務めている。さぞかし、本望だったことだろう。
 因みに、大相撲は明治の中期から梅、常陸の黄金時代へと全盛期を迎える。
 明治42年5月、相撲協会は晴雨にかかわらず興行できる国技館を東京本所の回向院境内に建設した。設計、監督は辰野金吾工学博士、葛西萬司工学博士(当時は工学士)である。
 
●辰野隆の生涯で最も光栄なのは昭和天皇を交えての「御前放談会」だろう。昭和24年2月、徳川夢声、サトウハチロウ、辰野隆の3名が招かれて、昭和天皇を前にしての放談会が計画された。ところは、吹上御苑・華蔭亭。
 同年6月に「天皇陛下、大いに笑う」と題して「文藝春秋」誌上にて、この鼎談が紹介され、出版されている。
 
 以上、数少ない資料を基に、辰野隆のフランス語、文学に対する薀蓄と幅広い人間性を感じさせる“文化人”の人間像を描いてみました。昭和39年逝去。没後48年、辰野隆は、今の日本を如何批判されているだろうか。
 
 
(2)唐津の文教推進家、辰野金吾の叔父「鈴木乗熙(のりひろ)」
【文政10年(1827)~明治40年(1907)】
 辰野金吾の御親族として、忘れてはならないのは唐津の先覚者、「鈴木乗熙(のりひろ)」である。
 辰野金吾の叔父にあたる。
 鈴木家の当主は、鈴木正乗(まさのり)、次の乗光には5人の子があったが、不幸にして、皆、夭逝。このため辰野専右衛門の三男、民輔(助)を養子に迎え、乗熙と称した。時に齢22歳。この時点で、鈴木家は存在するが、そのルーツは辰野ということになる。
 
 鈴木家は、小笠原長昌の時代に、鈴木正乗が藩主とともに棚倉から唐津に入る。藩主小笠原長国の嘉永2年(1849)、鈴木乗熙は民助と改名し、「表坊主役」で出仕する。
 その後「御目付役」、「西洋流銃隊心得」、「御勘定組頭」、「御徒歩目付席町方吟味役」と役職も重くなり出世して、明治維新を迎える。
 維新後も、「市井所少属」、「物産所少属」に任ぜられ、明治3年には勤務実績を賞され、繁栄に力を尽くしたことで、金50両を下賜されている。
 
 明治5年、藩校「志道館」、「耐恒寮」が閉鎖されたことを憂い、鈴木乗熙は大島興義等とともに、書籍、洋書、さらに教師を集めるのに苦労しながらも、「志道義舎」を設立する。
 しかし、明治7年、江藤新平などの佐賀の乱に伴い、当時の唐津町長が旧唐津藩士を呼応させるべく、志道義舎に集め、兵站基地・事務所としたため、乱後は荒廃し、廃校となった。
 当時、たまたま、東京遊学から帰唐していた大島小太郎は、荒廃した志道義舎、去就に迷う少年達のために、橘葉医学館跡(現在の唐津市京町の札の辻児童公園)に中学校「余課序(よかじょ)」を設立する。やがて生徒数も増えて「共立学校」と改称されたが教員の養成が急務となる。
 そこで乗熙は、明治9年、長崎県唐津伝習所という速成の教員養成所を設立した。
 生徒は、17歳~20歳の旧藩士の子孫と、各小学区の選出による子弟も許可したので、優秀な人材が多く入学し、勉学に励んだ。卒業生には、大島小太郎、田辺新之助、鈴木民衛(鈴木乗熙の長男)、辰野專の名があげられる。
 
 このようにして、明治初期の学校の設置、教育制度の確立に努めた乗熙は、常に、教育の重要性を認識し、その充実に意を尽くした明治人である。
 
 冒頭に述べたように、乗熙は辰野金吾の叔父として、金吾が幼少の頃、野辺塾で漢学を学ぶように勧めたといわれている。
 
 因みに、鈴木乗熙は、男子4人、女子4人の子宝に恵まれ、その子(乗熙の孫)も数多く、それぞれ立派に活躍されている。
 その中から、乗熙の長男の長女フミさんのご主人は海軍中将の山田道行氏、昭和19年2月、ルオット島で玉砕された。その報道を聞いたのは、私が当時中学2年生の時。母が涙ぐんで「玉砕されたのよ」と話してくれた時の心情は今なお、心痛む。合掌。
 また長い間、旧制唐津高等女学校、唐津東高で国語の教鞭をとっておられた「鈴木俊熙」氏は、乗熙の孫にあたられる。薫陶を受けられた方々には、懐かしいことでしょう。
 
 乗熙の次男、二男松(におまつ)氏は佐賀の張家に養子に入られ、そのお孫さんはトヨタ自動車の社長、会長を務められていた「張富士夫」氏といえば驚かれることでしょう。
 鈴木乗熙は、辰野金吾の叔父であり、張富士夫氏の曾祖父にあたられる。
 鈴木家の方々も代がかわられていることでしょうが。益々のご繁栄をお祈りしながら、筆を擱きます。
参考文献:
 辰野隆 関係
 ・「忘れ得ぬ人々」 辰野隆 著 講談社文芸文庫
 鈴木乗熙 関係
 ・市報からつH10.8.1(郷土先覚者シリーズ)
               田島龍太末盧館長に指導を頂きました。
 ・鈴木熙氏、鈴木家関係資料を参考にさせて頂きました。