私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 9月になっても残暑厳しい折りから、会長コラムへようこそ。
 このコラムもおかげさまでこの回で111回目になりました。
 この間には、数々の出会いがありました。そのひとつに、郷土唐津、馬渡(まだら)島出身、昭和の美男力士、小結 松浦潟を第13回と第57回の2回掲載しましたところ、松浦潟の実弟、牧山春雄さんと文通、そして一度だけですが、お会いすることができました。
 この度、請われるままに、唐津の郷土史誌“末盧国”に松浦潟一代記を掲載しました。
 いささか、長文になりますが、秋の夜長、ご一読頂ければ幸です。
 
馬渡島出身、郷土力士 小結 松浦潟達也
(一)東京大空襲
 「昭和二十年三月十日未明、少数の誘導機に導かれ、超低空で東京湾に侵入したB29三百機は、一千七百屯の高性能焼夷弾を搭載し、東京 都東部の下町、江東区墨田区台東区を波状攻撃する。折からの猛烈な北風にあふられ、火災は大きな火流となって路上を走り、家屋をつらぬき・・・未曾有の火焔地獄と化する」
(『東京大空襲』早乙女勝元著)
 この大空襲は、国技館をも襲う。
 「当時、本所千歳町竪川の棟割の長屋の一軒に、新婚間もない松浦潟達也は疎開もせずに住んでいた。長屋にも火が入り、消火をしていたが危険となり荷物を積んで車を曳き、かみさんが後を押して・・・二人の消息は猛火の中に消えた。数日たって、警防団の一人が『そういえば、バカに大きな佛さまがあったよ』と語ったという。果たして、それが松浦潟であったかどうか。・・・美男力士として鳴らした松浦潟。その死はあまりにも悲惨であった」
(『あるフンドシかつぎ一代記』小島貞三著より)
 
(二)松浦潟とのつながり
 「馬渡島から、松浦潟という美男力士が出て、小結までなったんだよ」と今の唐津の人たちに説明しても、いぶかしそうな顔をされるようになった。
 昭和初期、不況時代の中にあって相撲界は横綱空位という不運の時代から、玉錦、双葉山時代へと移る。双葉山の六十九連勝という無敵な強さと、日本の躍進ぶりとが重なり空前の大相撲人気を呼んでいく。その頃の男の子は、それぞれヒイキの相撲とりの四股名を名乗り、土俵や砂場で取っ組みあったものである。
小学生相撲大会で個人優勝したときの写真
賞状を持っている少年が私
 こんな雰囲気の中で、いつ頃からか、父、傳兵衛が松浦潟の後援会長を引きうけている。私の相撲熱はいやがうえにも舞いあがる。
 小学六年生(昭和十六年)のときは、唐津市東松浦郡の小学生相撲大会に個人優勝という幸運にめぐまれる。私の古いアルバムは、「松浦潟と少年宮島傳二郎」との記念写真を保存している。
 松浦潟は当時入幕したばかり、もっとも脂がのり切った頃であろう。やさしく逞しく、今思えば現役時代の龍虎といった感じであった。
松浦潟と少年宮島傳二郎
 こんな少年時代の思い出を宮島醤油の平成十六年七月のホームページのコラム欄に掲載したところ、その三ヶ月後に、「私は松浦潟の姪で、私の父は松浦潟の弟です。」とのメールを頂き、驚きと同時にその奇縁を喜んだ。
 このメールの後、松浦潟の実弟、牧山春雄氏との文通がはじまり、親しくしてもらった上に、親戚知人の方々から集められた貴重な資料まで送って頂いた。
 これらの資料をもとに、郷土が生んだ美男力士、松浦潟達也の一生を追うことにする。
 
(三)小結 松浦潟達也
 (1)入門まで
 松浦潟は、本名 牧山強臣。大正四年五月二十七日、父牧山吉太郎の六男、佐賀県東松浦郡名護屋村(現、唐津市鎮西町馬渡島野中)にて出生する。
 幼年の頃のことについては、実弟牧山春雄氏が五才の時に兄が入門したので、記憶がなく、また友人等の思い出話を知る人も少なくなっている。
 大相撲への入門の動機は、当時(昭和四年)の馬渡島小学校長、弥富忠六氏の熱心な勧誘により知人を通して錦島部屋に入門する。
 
 (2)初土俵から入幕まで
 初土俵は、昭和五年一月場所、その後の成績は、序の口、序二段を経て、
 ●昭和七年 春場所  三段目 四十二枚目
 ●昭和七年 夏場所  三段目 二十九枚目
 ●昭和八年 春場所  三段目 四枚目、五分
 ●昭和八年 夏場所  三段目 三枚目三点負越
 ●昭和九年 春場所  三段目 十六枚目、五分
 ●昭和九年 夏場所  三段目 十枚目四点勝越
(当時の春場所は一月、夏場所は五月の年二場所)
 入門当初は、大きな人達ばかりに驚き、毎晩うるさい鼾に眠れず、馬渡島の家族への手紙には、メザシが食べたいと訴えていたとのこと。しかし、ちょうどその頃。実兄二人が、横浜港で三菱系の港運会社の艀で働いており、時間があれば兄達を訪ね、田舎料理で時を過ごして疲れを癒していた。
 松浦潟の新弟子時代である昭和七年一月の相撲協会は、大きな試練の時期を迎えていた。
 出羽海部屋の天龍等が協会の改革、力士の待遇改善を協会に要求したが容れられず、新興力士団を結成する。これに呼応して、鏡岩、朝潮等も「革新力士団」を旗あげし国技館は混乱していた。
 この時代に、松浦潟の属する錦島部屋の部屋頭、東大関能代潟(後の立田山親方)は「われわれは、乞食をしても、お世話になった大切な師匠を見捨てることはできない」と相撲協会脱退の勧告を拒否し、大相撲の伝統を守ることに専念する。当時十七才の少年松浦潟もこれに従い、稽古に励んだことだろう。
 
軍配を形どったメダル(左:表、右:裏)
 昭和九年夏場所、松浦潟は、三段目十枚目に昇進、四点勝越の好成績、この頃から、均整のとれた体格と足腰の良さを認められその将来を嘱望されてくる。
 昭和十年春場所には、幕下十七枚目で五点勝越しの好成績をあげる。松浦潟の遺品の中に、軍配を形どったメダルがある。
 入門以来五年間の稽古の成果は二場所連続の好成績につながり、このメダルを手にした彼は力士としての将来に明るい希望をもったこと であろう。つづいて昭和十年夏には幕下五枚目に昇進、勝越三点で、力士となって最高の喜びだという十両へ。晴れて関取となる。
 その後、
 ●昭和十一年 春場所  十両 十一枚目 勝越一
 ●昭和十一年 夏場所  十両 七枚目 勝越一
 ●昭和十二年 春場所  十両 三枚目 勝越一
 ●昭和十二年 夏場所  十両 一枚目 勝越三
 と着実に昇進する。
 
 (3)入幕、再入幕
 昭和十三年春、晴れの入幕は前頭十三枚目、しかし六勝九敗にて十両へ、この場所から松浦潟改め、錦島部屋の力士名大蛇潟を襲名する。
 ●昭和十三年 夏場所  十両 一枚目 負越一
 ●昭和十四年 春場所  十両 三枚目 勝越一
 (この場所四日目に双葉山は安芸の海に敗れ六十九勝にとどまる。)
 昭和十四年夏西十両一枚目初日より五日目まで休場、その後、六勝四敗ながら、番付編成上の幸運も重なり再入幕を果たす。当時応援していたファンは、幕下から十両へと順調に出世してきたのに、入幕前後から不調が続き一喜一憂したものである。
 この頃から日支事変も激しさを加え、相撲協会も軍需関係の慰問、あるいは中国満州等への慰問巡業、とくに満州への巡業が多くなる。 知人・後援者もでき「相撲やめたら一生面倒をみてやるよ」とまで後援してくれる人があったという。
 その一方、松浦潟自身は持病である痔の手術をしたり、腰痛に苦しみ悩み多い時期だったようである。
 この頃のことだろうか、松浦潟が部屋を出て行方不明になったとの連絡が、義兄のもとに入った。そのうち松浦潟が満州に渡ろうとして神戸にいることがわかり連れ戻したという、松浦潟の動揺を物語る逸話が残っている。
 所属する部屋も、皆様方のお骨折りで、もと大関能代潟の立田山部屋に移り、毎日、江戸川の小岩から国電の吊革にもたれながら、双葉山、羽黒山、名寄岩を有する立浪部屋に出かけ、稽古に励むことで立ち直っていく。
 
 (4)晴れて小結へ
 このような苦難の時期をのりこえ、
 ●昭和十五年 春場所再入幕  前頭 十九枚目 八勝七敗
 この場所から立田山部屋へ移籍再び松浦潟へ
 ●昭和十五年 夏場所  前頭 十一枚目 七勝八敗
 ●昭和十六年 春場所  前頭 十枚目 七勝八敗
 ●昭和十六年 夏場所  前頭 三枚目 十二勝三敗
 稽古に精進した結果三大関に敗れただけの好成績、今なら敢闘賞である。
 この年の十二月八日太平洋戦争が勃発する。
 この好成績の結果昭和十七年春、東方小結に昇進する。残念ながら、六勝九敗に終わる。この地位が最高位。長くない彼の土俵人生の中で最も大きく花開いた瞬間であろう。
 その後は、戦争も激しくなるが、前頭の上位にあって活躍をし続ける。
 ●昭和十七年 夏場所  前頭 四枚目 六勝九敗
 ●昭和十八年 春場所  前頭 六枚目 八勝七敗
 ●昭和十八年 夏場所  前頭 四枚目 七勝八敗
 ●昭和十九年 春場所  前頭 三枚目 七勝八敗
 ●昭和十九年 夏場所(戦時下のため十日間)  前頭 六枚目 六勝四敗
 ●昭和十九年十一月  前頭 三枚目 四休六敗
 以上、昭和五年初土俵から約十五年間、松浦潟の戦跡はここで途絶える。
 
 (5)相撲っぷり
 玄界灘は青潮(対馬海流)の真っただ中の馬渡島、潮風をうけて育った「松浦潟達也」は、身長一八六cm(六尺一寸五分)体重一〇五キロ(二十八貫)筋骨質、足腰もよく、均整のとれた体格。左四ツ、寄り身もよく、強烈な右からの上手投げ、身長を利用した吊りを武器に駆使した正攻法で、ファンを魅了した美男力士である。当時の出羽海相談役(もと両国)は、「将来かならず松浦潟時代がくる」と期待されていた。
 しかし、温厚な性格のせいか、破竹の勢にのって一気に昇進することができず、幕内の上位にあって活躍した。
在りし日の雄姿
 昭和十八年夏場所五日目に当時の西方の横綱照国と対戦。「青柱に追い詰められながらも右からの上手投げに照国は意外なほどアッケなく 崩れる。
 さらに七日目にも、もう一人の横綱安芸の海と対戦。安芸の海の東土俵際での下手投げに大きく傾いたが、懐の深い松浦潟はこれをよく残して、逆に鋭い上手投げを放ち、強靭な腰と投げの威力を発し」殊勲の星を挙げ話題を呼んだ。
 大相撲の長い歴史の中で彼が残していった印象は、最高位小結。幕内上位で活躍したという評価でだろうが、当時の少年たちには颯爽とした美男子として、心に残っている。
 
 (6)その人柄、友人、ファン
 性格は温厚、お酒は好きだったようだ。意外にも、手先が器用で、愛妻の時計等はよく分解掃除をしていたとの、心温まる話も聞いている。
 大相撲の人気力士として、当時の政財界の有力な方々から後援を頂いていただろうが、戦中の混乱期で残念ながら、つまびらかにすることができない。
巨人軍名投手スタルヒンと松浦潟
 意外なこととして、スタルヒン投手との交遊がある。牧山春雄氏の資料の中に、昭和十五年夏場所、支度部屋で、当時の巨人軍のスタルヒンとの写真がある。
 その裏に「この外国人は日本職業野球団巨人軍名投手のスタルヒン、と云う人です。子供のときから北海道の旭川の中学校を出て野球界の人となったのですから、日本語は馬渡の人よりじょうずです。私の親友です。十五年夏場所仕度部屋にて」とコメントしてあり、意気投合した仲だったことがうかがわれる。
 
 (7)相撲小説のモデルに
 相撲界きっての好男子とあっては、松浦潟のファンとくに若い女性も多かったはずである。
 その中に「名倉光子」さんがおられ、昭和四十七年に松浦潟をモデルにした相撲小説『虹をつかめなかった』を出版された。そのあとがきに、自らの想いをこう語っておられる。
 「昭和二十年三月十八日、十日の大空襲の後、やっと電車が通じたので、私は早速、その焼跡に出かけてみた。高い駅のホームに立って再び焼土と化した樹を見下ろしたとき、私は、私の十代の思い出もともに灰になったのを感じた」。
 「私は彼には二度しか逢ったことがない。二度とも新婚早々の奥さんと一緒だった。横綱大関にもならなかった。忽ちにして忘れられてしまうであろう一人の力士の痛ましい消え方が、十代の私に強いショックを残した。この人の名をもう一度人々の記憶に呼び戻したい、と私は思い続けていた。その思いから・・・すでに三十年近く消え失せることなしに続いている」。
 と松浦潟への鎮魂の想いと執筆の動機を語っておられる。
 恐らく、一人の力士の一生を本格的な長編小説として描かれたのは、他に例をみないであろう。
(四)結婚、空襲
 戦中戦後のきびしい時代、日本国民、すべての人が戦争にともない何らかの影響をうけている。その一人として、松浦潟の最後は、美男力士として鳴らしただけに、その死は悲劇的であった。
 戦争が日増しに激しくなる頃、松浦潟は、二回にわたり召集をうけ、久留米に行き身体検査をうけたが二回とも「国技に頑張りなさい」と兵役を免除された。その都度、馬渡島に帰り、上京するときは、食料品をトランク一杯詰め込んで帰ったという。
 このような厚意に恵まれ立田山部屋へ転属し、双葉山の立浪一門との稽古に励み、小結までのぼり、意中の人と結婚する。
 名古屋市中区時雨茶屋経営、長山まさ、長女、冨美子、神奈川県二ノ宮神社で挙式、新居は、東京都世田ヶ谷区下馬町、新築の二階建をかりて船出する。国技館まで通うのが遠すぎるとのことで、一年位の後、両国に転居している。
 そして、運命の三月九日を迎えることになる。
 松浦潟は、この日、横浜の生糸会社の会長、三系園の所有者、原良三郎氏の家に招待されており、その帰路、横浜の井土ヶ谷の実姉の家に立ち寄っていた。そのとき空襲警報が鳴る。
 姉は、泊まっていくように言ったが冨美子一人残しているので、と言って東京に向かったとのこと。実姉が、暫くして東京の方をみると、空が真っ赤になっていた。
 実弟牧山春雄さんは、「二人は、一緒に逢ってはいないような気がする。どうか、松浦潟夫妻のご冥福を祈って下さい」と淋しく語っておられた。
 当時の社会情勢の中で、日本の国技を守れ、と兵役を免除されるという関係者の厚意に恵まれながらも大空襲の犠牲になるとは・・・
 この事実を聞かれた、立田山親方(もと大関能代潟)の次女、俳人、清水尚子さん(俳号みのり)は、
 「松浦潟さんは、戦地へゆかず、つかの間であれ、新婚時代を過ごせたことを幸せ・・・思いたい。大空襲の中で、最後は、たとえ離れていても心は同じくひとつであったに違いありません」
 と弔句を捧げられている。
天高く遥けくも近し松浦潟    みのり
あとがき
 大空襲から十三年経った昭和三十三年 三月九日 松浦潟の御令弟、牧山春雄さんに、次男、牧山浩嗣さんが誕生する。春雄氏は御生前 に「奇しくも兄松浦潟が姉の家を出た頃、の時間に・・・」とお話になっていた。牧山浩嗣さんは、長じて時津風部屋に入門(二代目)松浦潟を襲名将来を期待されていたが、膝の靱帯損傷のため、何回か手術されていたが治癒できず残念ながら幕下十四枚目、十両を目前に相撲界を断念された。現在、サンフランシスコにて和食のレストランに勤務されているとのこと、五~六年前に、もと豊山の先々代時津風親方が訪問され、非常に喜んで頂いたとのこと、
 松浦潟は、昭和二十年亨年三十才、戦災の火に包まれ非業の死を遂げるが、今なお相撲界の誰かが、郷土の人々御親族の方々が、語り継いで頂ければ幸いです。
 松浦潟は、戦火にあい何ひとつ遺品は残ってはいない。
 実弟春雄さんは、牧師さんと相談の上、「写真」一葉をお供えして、牧山家の長兄のキリスト教の教会前のお墓に御一緒にお弔いしてあるとのこと。
 唐津が生んだ、好男子、
 「松浦潟達也」
 皆さんとともに、静かに御冥福を祈りながら、筆を置きます。
 
 この拙稿をまとめるにあたり、最もお世話になった、御令弟、牧山春雄様は二〇一〇年十一月二十六日八十四才にて急逝されました。謹んでお悔やみ申しあげます。合掌。
 最後になりましたが清水尚子様並びに御紹介頂きました田中彌壽雄様には、「玉錦双葉山とその時代」その他数多くの資料を快く提供頂きましたこと厚く御礼申しあげます。