私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。

 あけましておめでとうございます。
 今年、平成25年は巳(ミ)年。
 平成元年が巳年、今年は平成に入って3回目の巳年になります。
 昨年12月16日の総選挙は、自民党の大勝利。さて、平成25年は明るい年になりますように祈りながら巳年へ。
 
巳年に想う
(一)今年は巳(蛇)の年
 「キャッ!」
 小学校2~3年生の頃だったろうか。母校外町小学校の運動場の裏は、なだらかな草原だった。子どもたちにとっては絶好の遊び場。“戦争ゴッコ”で駆け上がる。その草むらの中から突然蛇がニョロ、ニョロ。足がない細身の蛇が、音もなく、現れる。
 「キャッ」と叫んで、一瞬、足がすくむ。そんな、恐怖感も今は何となくなつかしい。
 巳年は、蛇の年である。
 その蛇は今ではマッタクといってよい程、見かけなくなった。
 しかし、蛇は、とくに古代人にとっては、身近な動物として「共生」していた。
(二)蛇とは
 蛇は爬虫綱有鱗目ヘビ亜目に属する四肢の退化した爬虫類の総称という。
 種類は、全世界で2,500種、南極を除いた各大陸に棲息、平地から4,000mの高地まで、森林、草原、湿地、砂漠、樹上等から人間の家屋まで住みついている。また、御存知のように周囲の温度に対応して自らの体温を変化させることができる変温動物である。
 南方に行くと、街頭の遊びで大きなニシキヘビを首に巻かされた経験をお持ちの方がおられるはず。私も思い切って首に巻いてもらった。
 一瞬、ヒンヤリした感触は今も残っている。
 蛇は、本来は温和である。しかし、足が退化し、くねくねと蛇行したり、トグロを巻いたり、チロチロ舌を出したり・・・とほとんどの人が不気味、嫌悪、恐怖感をそそられる。
 しかし、常にわれわれに周囲にあって、辛抱強く、息をこらして潜み、相手が油断するのを見ると、パッと獲物に襲いかかる等、その習性は鋭い。また、その執念深さや何度も白い皮を残し、脱皮をくり返す旺盛な生命力が畏敬の念へと変化し、日常の会話の話題となり、さまざまな諺を生み、さらに蛇神信仰へと変化している。
(三)蛇たちと人
1.蛇のつく言葉として
蛇口、蛇ノ目(傘)、蛇皮線、蛇行、蛇足(蛇の絵に足を描き損した話)等々。
 
2.巳、蛇にまつわる諺では
●蛇、一寸にしてその気あり(蛇は小さいながらも気迫がある)
●蛇が蚊を呑んだよう(あまりにも小さいことで問題にならない)
●蛇が出そうで蚊も出ぬ
●蛇(ジャ)の道は蛇(ヘビ)(同類の人がすることは同類の人にはよく分かる)
●蛇、竹によじ登り、百足(むかで)地に転ぶ(物事には反対のことがよくある)
●蛇になって金を守る(死後も金銭に執着する)
●蛇の如く、鳩の如く(人生は賢く、温和であれ 聖書マタイ伝より)
●蛇も一生、蛞蝓(なめくじ)も一生(人の運命はそれぞれ)
●蛇に遇うた蛙のよう
等々、今では死語になったような諺も数多い。
 
3.蛇の複雑な習性は、さまざまな禍福を呼ぶ。
 例えば、「蛇の夢を見ると縁起がよい」、「家屋に蛇が住むと金持ちになる」、「蛇をみるとその日はあまりよくない」等、蛇と禍福は古くからの「言い伝え」が各地に残っている。
 さらに、蛇が水を好み、湿地帯、川、池に親しむことから、蛇が流れに沿って枕にしたという石、蛇の頭に似た蛇石は各地に散在する。そんなことから、蛇は晴雨を予知する・・・長雨で大洪水を起こしたり、干ばつになったり、農耕に最も重要な雨量を調整できるのではと信じ込み、さらに蛇を神格化し、蛇信仰、蛇水霊、水神へと深化していく。
(四)蛇にまつわる神話、伝説から
1.そのひとつに御存知の「古事記」の神話、須佐之男命(スサノオノミコト)の「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治」がある。
 
 スサノオは出雲の肥の河に人が住んでいることを知り、川を登っていくと、老夫婦が童女を中において泣いている。「肥の河には、八頭八尾の大蛇がおり、毎年、娘を食べに来る。今年はこの娘です」と泣き崩れる。
 スサノオは、老夫婦と語らい、対策を練る。
 酒が大好物の八岐大蛇をおびき寄せ、酒壷を与え、したたか酒を飲んだところを、スサノオが斬り伏せた。
 大蛇を斬ったとき、腹中から出たのが、3種の神器の一である「草薙の剣」である。
 こうして大蛇を殺し、スサノオは出雲に新居を求めて、「私はここに来て気分が清々しい」と次の歌に曰く、
八雲立つ、出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣垣を
と喜ぶ。
 
 以上、古事記神話を巳年に因んで読み返してみた。戦時中の小学生の時代に出雲の国づくり、日本の国づくりについて、教え込まれた。しかし現代では農耕社会、農業と治水の発展過程としての解釈が加わっている。
 八岐大蛇は、肥の河に住む水霊として巨大な蛇神として恐れられ、童女は神に捧げる巫女、酒を醸し、酒樽を並べるのは、神を迎える儀式。毎年のように肥河は氾濫し、稲田を壊滅させてしまう・・・その恐怖におののく老夫婦。スサノオが肥の河の洪水を惹き起こすのは大蛇だとの俗信を否定していたのは、すでにスサノオが、肥の河の治水工事を完成させ、自ら水をコントロール、管理できる力を持っていたからだろう。
 しかし、当時の人たちは殺された大蛇も神社としてお祀りする形をとっている。
 
2.もうひとつ、蛇にまつわる伝説としては、わが郷土、唐津松浦にかかわる「松浦佐用姫」がある。万葉集とは別に肥前風土記に残る異説がある。
 万葉集には
遠つ人 松浦佐用比賣 夫(つま)恋に
領巾(ひれ)振りしより負へる山の名(871)
 佐用姫最愛の夫、大伴狭手彦が藩国に派遣されるとき、山の上から領巾を振ったことにより「領巾振の嶺」と呼ぶようになった、とある。
 しかし、その後のこと、佐用姫の死については、夫からプレゼントされた鏡を抱いて、投身したという話になっている。
 私どもの郷土では、領巾をふったあと、駆け降りて、松浦川の佐用姫岩へ、濡れた衣を「衣干山」に干し、夫の名を呼びながら、呼子へ、さらに加部島へ渡り、「石」となって、田島神社に祀られているとの悲恋物語。
 
 ところが、「肥前風土記」には、後日談がある。
 佐用姫が狭手彦と別れた5日後、容姿形貌(かおかたち)が夫、狭手彦に似た人が夜毎来て、婦と共に寝て、暁には帰っていく。婦は不思議に思って、・・・ひそかに績糸をその人の裾にひっかけ、その麻糸のとおりに尋ねていくと、その嶺の沼のあたりに着く。そこには蛇が寝ている。体は人にして、沼に沈み、頭は蛇にして沼の水際に伏している。
 忽ち、人となって、こう語った。
 「篠原の弟姫よ。一夜でも共寝をしようかと思った時はわが家(沼の中)へ下し沈めることになろうか」
 このことを聞いた弟姫の侍女が、すぐ一族に知らせ、全員を動員して登ったときには、蛇と弟姫の姿は全くなかった。
 沼の底に人の屍があったので、弟姫として嶺の日の当たる南に墓を造り、屍を納めた。その墓は今に在る、と。
 
 「領布の嶺」の後日談は万葉集と肥前風土記では全く異なっている。蛇が男に化けて夜毎、美女を妻問いするので、麻糸をつけて、男の身許を探ろうとする話は、大和の三輪山をはじめ数多くあり、すでにこの時代には、蛇に対する信仰はうすらぎ、蛇を神格化して崇拝する段階から脱却しており、単に、稲作農村の豊かさを築いてくれるものとして俗信されているのだろう。
(五)巳年を迎えるにあたって
 今年は12支の第6番目、巳年でちょうど半分になる。
 巳は音は「シ」、訓は「み」、象形文字、へびの形をかたどる。字義は「くねくね」とさせる意味。蛇は、くねくねするもののうち、動物の蛇を特定する。
 12支にそれぞれ動物をあててみると、以上のように、上と下(12支と動物)は関係ないが、巳だけは、巳と動物の蛇の意味とが合致している。それだけ蛇は人間に近い存在だったのだろう。
 最後に一茶の俳句をお借りする。
 けっかうな御代とや蛇も穴を出る
 
 昨年暮、総選挙を終え、新しい政治体制にはいる。
 冬眠していた蛇たちが、今年は、佳い年になるようだと穴を出てくるようにお祈りしつつ・・・
参考文献:
「十二支物語」 諸橋轍次 著 大修館書店
「十二支の民俗誌」 佐藤健一郎、田村善次郎 著 八坂書房
「十二支の話題事典」 加藤迪男 著 東京堂出版
「動物故事物語」 実吉達郎 著 河出書房新社
「日本書記・風土記 日本古典文学第2巻」
         直木孝次郎、西宮一民、 岡田精司 編纂 角川書店
「古事記(上)全訳註」 次田真幸 著 講談社学術文庫
「角川漢和大辞典」