私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 会長コラムへようこそ。
 
 昭和28年3月に学業を終え、就職。気がついてみたら、今年の3月で60年の時が流れている。
 大学のセミナーは労働法を選んだ。当時の日本の社会経済界は、終戦後の混沌を脱しえず、「冷たい戦争(Cold War)」の影響を受け、左右対立、労働運動も盛んであった。
 就活では、法学部出身の採用は、総務、労働関係、労務管理が多く、当然の如く、その方面に関心が深まり、爾来今日まで、
  人間は何故、働くのか
  人間は何のために働くのか
  日本人は何故、勤勉なのか・・・・・・
  働かざるもの食うべからずとは・・・
等々、常に潜在的な疑問が解けず、今日に至っている。
 
労働倫理観に想う(その一)
日本人の労働倫理観を訪ねる
(一)万葉集から
 徒然なるままに、万葉集を繙く。
 相聞、挽歌が多い万葉集の中にあって、第5巻は「雑歌」と称され、いわゆる和歌に加え、漢文漢語も多く、その内容には興味をそそられる。
 
(1)松浦川に遊ぶ
 まず、大伴旅人の、わが郷、唐津に因んだ「松浦川(現在の玉島川)に遊ぶ序」にはじまる。
 恋愛の歌物語である。
 
   松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると
       立たせる妹が 裳の裾濡れぬ
                            大伴旅人 855
 
   松浦なる 玉島川に 鮎釣ると
       立たせる子らが 家道(いえじ)知らずも
                         大伴旅人 856
 
(松浦川の瀬がさらさら輝いている。あなたの着物の裾が濡れている。
 あなたの家がどこか知りたいのだが・・・・・・)
 
 こんな男性の問いかけから、甘い創作恋愛歌物語がはじまる。この一連の和歌の贈答は、中国の空想小説「遊仙窟」―主人公が仙境に娘を訪ね、恍惚境を体験する。当時の歌人たちに多く読まれていた。―という話を下敷にしたもので、文学史上、小説のハシリといわれている。
 
(2)貧窮問答の歌一首、 併せて短歌
  松浦川の甘い恋愛物語から一転して、つぎは、下層階級の生活を描く、山上憶良の「貧窮問答」の歌が続く。
 
 風交(ま)じり 雨降る夜の雨交じり 雪降る夜はすべもなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお:原塩)を 取りつづしろひ(少しずつかじり) 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ(せきこんこん) 鼻びしびしに ・・・
(以下現代文に訳す)
 「おれさまをおいてほかのどこに人物らしい人物なんているものかい」
 ・・・まったく寒くてたまらんわい 麻の夜具をひっかぶり 袖無しの着物ありったけ 着かさねてみても 寒い夜だよ・・・
 おれよりも貧しい男よ。お前さんの両親は飢えてこごえているだろう。女房子どもは声もうつろに泣いてるだろう。こんなざまの時、お前さん、どうやって世を過ごしているんだ・・・
 天地は広いと人はいうがおれのためにはこんなにも狭いものか・・・
 たまたま人に生まれてきたというのに、人並みに田も耕しているというのに・・・
 ぼろきればかり肩に打ちかけ、地にうずくまる低い小屋の中に藁をほぐしてじかに敷いて、親父やおふくろは枕の方に、女房子どもは足の方に、おれを囲んで暮らし、憂えて呻き・・・
(中略)
 笞(むち)を手に、里長(さとおさ:お役人)は寝屋の戸口までやってきて、租税を納めろ、納めろとわめく。
 こんなにもどうしようものないものなのか、世の中の道は。
山上憶良 892
 
 この世は憂さのきわみ、痩せ細る思いのきわみ、されど飛び立つことはできぬ、おれは鳥ではないのだから。
山上憶良 893
山上憶良頓首謹上
 
 以上、この「貧窮問答の歌」は、天皇賛美、相聞歌、挽歌と優雅なものが多い万葉集の中にあって、天平の律令社会の末端であえぐ人たちの姿を見事に歌いあげている。
 恐らく、日本の文学、詩歌の中で、人々の生活を冷静にかつ情感を漂わせ、論理的、求道的立場から見つめた最古の記録であろう。
 山上憶良は、すでに仏教を学び、その無常観まで体得していたのだろう。
 また律令社会の根本である、納税への民苦まで踏み込み、里長(役人)の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)ぶりも批判的にとらえている。おそらく為政者側の立場の山上憶良がこの長歌を頓首謹上した相手は、上司と推測すると複雑なものを感じる。
 万葉集の中では、ユニークな存在であり、貴重な歴史上の記録といえるだろう。
(二)菅原道真
 万葉集の時代から、時は流れること、1200~1300年、悲運の政治家、菅原道真も讃岐守在任中に作られた五語律詩に「寒早十首」がある。
 その中の一首
 
 「何れの人にか 寒気早き
  寒は早し 走り還る人
  戸(へ)を案じても 新口無し
  名を尋ねては 旧身を占ふ
  地毛(ちぼう) 郷土瘠せたり
  天骨 去来貧し
  慈悲をもって繋がざれば
  浮逃 定めて頻(しきり)ならむ」
 
 「どんな人に寒気は真っ先にこたえるか、寒気は早い、逃亡先の他国から突き戻され還った浮浪者。
 戸籍を調べ直しても、そんな舞戻りの名は見当たらない。
 名をたずねてはどこ出の人間なのかを推量する。
 土地は瘠せて実りは乏しい。
 右往左往のくらしのため骨も貧弱。
 慈悲ある政治でつなぎとめれなけば浮浪逃散さだめし頻りであろう」
 
 菅原道真は当然、政治的にしかるべき地位にあっただろうが、中央集権的な時代に、その権力のもとであえぐ人々を、暖かい眼差しをもって見つめている。人間性、ヒューマニズムと、はっきりと国政を批判する知性には敬服せざるをえない。
(三)蕪村
  百姓の生きて働く暑さ哉     蕪村
 
 残念ながら、この句が生まれた、場所、時は記憶が失せてしまった。
 この句の意味が「生きて働く」と「暑さ」のいずれが主なのか、判断しにくいが、ただ、炎天下、流汗淋漓、黙々と鋤をふるう農夫の過酷な労働への慈しみが漂ってくる。
 
 以上、山上憶良、菅原道真、蕪村の三者三様の労働についての文献をたどってみると、意外に少ない。「働く」ことの意味を定義づけるためには、もう少しの時が必要だったようで、仏教、儒教の影響を受けながら「労働」の思想的体系を整えたのは、鈴木正三(しょうさん)で、徳川時代になってからである。
 鈴木正三から引き続き、石田梅岩へと発展していくが、その過程は、次の機会まで、勉強の時間を与えてください。
参考文献:
「私の万葉集」 大岡信 著 講談社現代新書
「万葉集 鑑賞日本古典文学第3巻」 中西進 編 角川書店
「道真」 高瀬千図 著 日本放送出版協会