私の似顔絵
(辛亥新春、昭和58年に
描いてもらいました。)
 でんじろうコラムへようこそ。
 
 3月のコラムに鳥居のことを書きながら、ふと唐津の大富豪 常安九右衛門保道が江戸時代に、太宰府天満宮に鳥居を献納したことを思い出し、筆をとりました。
 しかし、この鳥居は銅で造られていたため、第2次世界大戦で政府に供出され、今や「まぼろしの大鳥居」となって唐津の皆様方の記憶から消え去っています。
 拙稿につきあって頂き、今を去ること233年、唐津で大きな事業を成し遂げた偉大な先人の遺徳をしのびます。
 
この写真は大正時代の太宰府天満宮の参道です。
手前の鳥居が戦時中に供出された銅の鳥居です。
(写真提供:日本古写真倶楽部)
 
まえがき
 西鉄の急行電車に乗り、太宰府駅に降り立ち、すぐ右に折れると参道に入ることになる。その入口に、天明元年(1781)から昭和18年(1943)までの162年間、堂々たる青銅の鳥居(華表)が聳えていた。
前掲写真の拡大
 
華表記(華表とは鳥居のこと、前回のコラム参照)
 建立者 常安九右衛門保道
 天明元年 12月朔旦建立
 青銅、神明造
 高 3間4尺7寸(6.7メートル)
 左右竿間 2間3尺5寸(4.6メートル)
 竿石廻 1間2尺5寸(2.5メートル)
 正大工 山孫大尺貫規
 鋳工 服流平兵衛塚重他6名
 
 この基本的な資料と古い写真を見て想像するだけでも壮観だったことだろう。
 
 このコラムは4月、5月とまたがるので、最初にその概要を綴っておきます。
 
 この大鳥居は、天明元年(1781年)、唐津藩の豪商、常安九右衛門保道によって奉献され、太宰府参詣の人々を驚かせていたが、残念ながら、昭和18年8月12日、第2次世界大戦の戦費調達という国家の要請により、鉄銅等の金属は強制的に供出させられる。天明元年から昭和18年までの162年間の寿命を終え、今やまったく「まぼろしの鳥居」になってしまった。
 もしも、この鳥居が今なお健在ならば「この鳥居は唐津んもんが建てたとバイ」と自慢できたであろうに・・・と惜しまれる。
 
 4月のコラムでは、常安九右衛門とは、いかなる人物か、どうして青銅の大鳥居を太宰府天満宮献納したか、あるいは建立までの経過をたどってみる。
 今となってはまぼろしの鳥居を再現することはできまい。しかし、奇しくも、この鳥居の土台であった台石2基は、今なお残されている。その行方を太宰府の文化研究所の方々のご協力により、訪ねることができた。
 また、この大きな鳥居は唐津の木綿(きわた)町で鋳造されていた。当時の唐津にはたしてこんな事業ができる力があったのだろうか。
 その木綿町に、鳥居の鋳造を成就するために、また由緒ある土地にと太宰府天満宮を勧請(神霊を迎えて祭ること)し、鳥居天満宮として祭られていた。
 台石のこと、唐津鳥居天満宮のことは、5月のコラムに掲載する。
一 常安九右衛門保道
 「大町の、大町の、鍋の鳥居が太いとて、
 見る人ごとに、オーサ、
 びっくりしゃっくり、びっくりしゃっくり」
 江戸時代の太宰府の俚謡である。
 この大鳥居を建立した常安九右衛門保道とは、はたしてどんな人物だったろうか。
 その出自は、九右衛門の墓誌銘によれば、波多三河守の流れをくみ、豊臣秀吉西伐の際は潜匿していたが、その後唐津京町に移住している。初代常安九右衛門は、小川島の捕鯨で巨万の富を得た。捕鯨で有名な2代目中尾甚六の娘が常安家に嫁入りする程の協力関係にあったとのこと。
 九右衛門は、もともと唐津神集島(かしわじま)で鰯網を業としていた。一時期、漁獲がなく惨憺たる日々が続いた。もう明日の飯もなくトボトボと湊の相賀を歩く。腹が減り進む気力もなく、仕方がないので芋穴に入り込む。ぐったりと身を横たえ、眠ってしまった。翌朝目が覚めると、アカアカと太陽が照り輝いている。見れば神集島の網にはたくさんの鰯がウヨウヨ。九右衛門は飛び上がって喜ぶ。一躍していい、大金持ちとなった。この幸運をとって、屋号を「日野屋」と称したという。
 これはいわゆる成功物語であろうが、捕鯨その他、幸運にも恵まれ、以後積極的にその他の事業にも進出し、大阪では、綿花、青田買いなどの取引をしたのであろう。(井上正彦「太宰府の銅の鳥居より」)
 
 日野屋は豪商として、名を残すが、本陣は、旧西日本銀行唐津支店(現在は駐車場)に構え、そこから東の方はすべて日野屋の店舗だった、と言い伝えられている。
 彼は信心深く、事業によって得た巨富は、まず神仏に寄進、あるいは唐津の町へ寄付することを惜しまなかった。
 現在残存しているものとしては、
 唐津長得寺本堂  英彦山神社  丈六唐金燈籠
 鏡神社石造燈籠  唐津天満宮燈籠
 相知平山八幡岳   五百羅漢 等々
 あるいは大町へ寸志を贈ったとの「覚」が残されている。
唐津天満宮燈籠 「施主 常安九右衛門保道」とある。
 
 神仏への篤い信仰は太宰府天満宮への大鳥居建立をもってさらに大きく花を開く。
 次に揚げる本人自筆による「太宰府天満宮銅華表鋳立日記」が残されており、九右衛門の建立への動機、熱意がうかがわれる。
二 太宰府天満宮銅華表鋳立日記
 筑前太宰府天満宮は、私の若手の頃から信仰している御宮で、34歳の年の冬、佐嘉表と銀取引につき、大難が生じた節、御神慮を以って大難は吉事となった。その後
 御神慮いや増す、若年より不束の身分だが、当所御上 佐嘉御上 双方の御恵みにて、このようになったのは、ひとえに御神慮と徹し、天満宮に何か一切の利益を寄附したいと存立(思い立ち)、宿坊萬盛院に伺い、御神前にお聞きしたところ、石の燈籠か唐金華表かと啓示された。両品のうち(いずれか)寄附したい。唐金華表といえば大造成であり、身分不相応とは心得ているが、我が念力をもって成就しよう。38歳酉の年から思い立ち、大阪、佐嘉、筑前その他に照合(問い合わせ)したが、鋳立を請け負うとことはなく、自分で鋳立を引き受ける外はない。
 天明2年寅2月晦日五ツ時より多々羅を立て地金3,300斤(1,980kg)、七ツ時までに漸く吹上げた。
 華表も追々出来たので、英彦山への銅燈籠一対の寄進を思い立っている。
(末盧国863頁掲載 現代文に読み下す)
 
 以上から推測するに銀の取引で得た富を献納しようとするが、銅の鳥居か石燈籠かと迷った結果、わが念力で成就させようとの決意の程がうかがえる。
三 建立までの事業経過
 その他に、常安家には巻紙が残され、大鳥居建立の際の工事報告書のような内容が残されている。
 その内容を抜粋すると、
●荒地金15,000斤(9トン)買い入れた、堅炭405俵、堅焼炭300俵、その他原材料等々
●米、安永9年11月~天明元年まで230日、米230俵、大阪の職人の給与の内容
●筑前博多までは、常安家の舟にてとどき、博多より宰府までは唐津の町々からの加勢であった。
●建上げ(棟上げ)の節は、宰府からの加勢の人々に米500俵、酒8斗、肴代、小判3枚を組頭宰府小田原吉右衛門へ
●唐津の人々凡そ200人、3日おり(滞在)て博多に下ったり、4日、または5、6、7日もあり。
●宰府の大工20人、4日で80人
●棟上げ用餅、赤もの、小ざらし、するめ、掛け鯛等々(の費用負担)
●博多に帰り、川端町の二間茶屋にて20人ばかりは2日2夜大いににぎやかになり、あとの人々は船にて帰ったり、徒歩で帰る人あり。15~16人は宰府に残ったりする人もあった。
四 天満宮大華表の落成式
 かくして天明3年(1783年)8月16日、落成式を迎える、その様子を九右衛門の日誌から引用し、その喜びの雰囲気を味わいたい。
 
天満宮大華表の落成式
 鳥居の落成式は天明三年八月十六日の朝五ツ時、満盛院のほか十ヶ寺の社僧たちのくぐり初めにはじまった。三間後れて九右衛門、さらに二間後に倅たち、弟たち、その後に佐嘉、筑前、唐津、伊万里、呼子の各地から参列した商人たちおよび職人衆が続いた。
 神前参拝後、再び烏居の前に引返した人達の前には幔幕を張った三間に八間の特設大宴会場が待っていた。
 酒は四斗樽十七挺、一斗樽以下百二十七樽、肴は大島台七ツ、白木折五十六、扇子昆布を載せた台は数を知らず、山のように烏居のわきに積み立てられていた。
 その外に五升入徳利、一升入徳利十数箇も並んでいた。
 その後、常安九右衛門保道は、生涯をかけ、太宰府天満宮に、銅の大鳥
居を奉納した20年後、寛政13年(1801)2月6日、62歳で逝去、自ら祖先供養のためと建立した西寺町長得寺に葬られる。
 法号 修善院鶴丹千齢居士
 保道の経歴(墓誌銘)、600字を記した墓碑は大切に保存され、今もなお長得寺「中興の祖」として崇敬され、本堂横に立派な御位牌が安置され、永代供養が続けられている。
 以上、常安九右衛門の一生は、松浦史談会発行の「末盧国」第1巻の386頁、863~867頁の資料による。
 この資料は常安家の後裔 常安弘通氏が常安家に伝えられた古い文書を基に発表されたものである。
 常安弘通氏は朝日新聞社の記者として活躍された後、唐津に住居をもたれ、晩年を過ごされていた。ご冥福をお祈りするとともに厚くお礼申し上げます。
参考文献
「末盧国第1巻 豪商・常安九右衛門保道」 松浦市談会編
「とびうめ 境内漫歩 天満宮の石造物4」 八尋千世
「太宰府の銅の鳥居」 井上正彦