「去華就実」と郷土の先覚者たち

第15回 高取伊好 (上)


唐津から佐賀に向かう途中に、多久(たく)という地がある。山あいのひっそりとした郷だが、ここには孔子廟があり、古くから学問を尊ぶ気風の地として知られる。

高取伊好(たかとりこれよし)はこの地に生まれ、明治から大正期にかけて炭鉱王の名をほしいままにした。一代で西日本を代表する富豪の一人となったが、いっぽう、事業で得た富を文化教育事業に注ぎ込み、著しい社会貢献をした実業家としても知られる。漢詩の詩作や書を能くする教養人、文化人でもあった。成功して後は唐津に住み、悠々たる後半生を送った。唐津市城内の一等地に建てられた邸宅は、明治時代にわが国の中上流階級が残した住宅遺産の代表作とされ、国の重要文化財に指定されている。

高取伊好

(1)学問の家に生まれる

多久の郷は佐賀藩に属しながら、古くから多久家という地方豪族の治める地域であった。17世紀後半に鍋島家から多久家の養子となった多久茂文(たくしげふみ)は教育を重視し、東原庠舎(とうげんしょうしゃ)と呼ばれる学校を建て、そのシンボルとして宝永5年(1708年)に孔子を祀る「多久聖廟(たくせいびょう)」を創建した。国内に現存する孔子廟としては、足利学校(あしかががっこう、栃木県)、閑谷学校(しずたにがっこう、岡山県)に多久聖廟を加えた3箇所だけとされる。多久家はその後も学問を奨励した。

東原庠舎の跡

東原庠舎で使われていた木製の渾天儀(こんてんぎ)。天文学の教材で、多久市郷土資料館に展示されている。

多久聖廟

高取伊好は嘉永3年(1850年)、多久の儒臣鶴田斌(つるたひとし)の三男として生まれた。斌は多久家の家臣西文蔵の子だが、幼くして鶴田家の養子となった。斌自身を含む、西家の4人の兄弟は皆、幕末期の漢学者・漢詩人として名高く、また、姉の佐与は佐賀藩校弘道館の教授であった草場佩川(くさばはいせん)の妻となるなど、学者一族であった。

鶴田皓(つるたあきら)
高取伊好の長兄

斌には3人の男子と3人の女子があった。伊好は三男で、長兄は皓(あきら)、次兄は庸夫(つねお)といった。長兄である鶴田皓は法学を学び、明治2年に大学(今の東京大学法学部)少助教、のち司法官として日本刑法を草案し、元老院議官等を歴任した。治罪法・陸海軍刑法・会社条例・破産法の編纂にも参与し、明治時代を代表する刑法学者の一人である。また、斗南(となん)という号を持ち、漢詩人としても著しい天分を発揮した。伊好が学者の家に生まれながら実業界に入ったのは、どんなに努力しても学問では兄を越えることが出来なかったからだとも言われる。伊好の姉ケイは東原庠舎の教諭であった高取大吉の妻となったが、嫁いで間もなく亡くなったので、幼い伊好が高取家の養子として出され、父と似た運命を辿ることとなった。

伊好は5歳で郷校東原庠舎に学んだが、8歳で佐賀水ケ江に住む高取大吉の養子となってからは、伯父草場佩川の教えを受けた。佩川亡きあとは佩川の子廉(船山)、船山の子謹三郎(金台)と深く交わり、漢文学の素養を身につけた。伊好は身体の大きな元気者で、人柄が温厚なため、級友の信頼が厚かった。多久家の世継ぎである多久乾一郎とは同年輩で気が合ったので、御学友(伴読)に選ばれた。学者の家系であることも考慮されたのであろう。こうして多久家屋敷、東原庠舎、佐賀藩校弘道館などで乾一郎と伊好は共に漢学と国学を学んだ。

慶応元年(1865年)、この連載第4-5回で記したように、佐賀藩は長崎に藩校英学塾「致遠館」を設立し、藩内外の青年に対する新時代の教育を始めた。慶応3年(1867年)12月、18歳の伊好は藩から致遠館入学の指名を受けた。藩費で2年間長崎に派遣されるという名誉であり、立身のチャンスでもあった。しかしこの頃、80歳の養祖母キヨが病床にあった。母のいない高取家に8歳で養嗣子として入って来た伊好を、ずっと育てて来た人である。伊好は看病のため藩の指名を辞退し、最後の養祖母孝行をした。キヨは半年後に他界した。伊好の心の優しさを伝える出来事として知られている。

明治2年(1869年)、乾一郎が長崎の医師マンスデールの診察を受けることになったので伊好は同行した。ここで運命的な体験をする。長崎港沖に高島という小島があり、外国の最新技術を取り入れて、わが国最初の近代的炭鉱が稼動していた。佐賀藩主の代理としてこれを経営管理していた松林源蔵という人物に案内され、蒸気船「トーリスト号」に乗って伊好はここを見学し、採炭現場まで足を運んだ。蒸気船、採炭機械、揚水ポンプ、昇降機(エレベーター)、…、初めて眼にする近代設備に乾一郎と伊好は驚嘆し、圧倒される。


(2)東京遊学

明治3年(1870年)、乾一郎が昌平校(しょうへいこう)に入寮するために上京するにあたり、高取伊好はこれに同行した。既に東京で法学を学んでいた長兄のもとに住み、当時、箕作奎吾(秋坪)が開いていた英学塾である三叉塾に入った。西・鶴田・高取家の伝統である漢学の道に進まず、あえて西洋の学問を選ぶことについて、伊好は熟慮を重ねたようだ。次兄鶴田庸夫に宛てた手紙で伊好は述べている。「漢学も事業よく大成いたし候(そうら)えば、もちろん甚だ有用に候えども、旧弊陳腐の徒に陥らんよりは洋学の技芸を学ぶにしかずという説も御座候(ござそうろう)」。優秀な長兄のこと、致遠館入学を自ら辞退したこと、高島炭鉱で眼にした近代産業の威容などが伊好の胸中に去来したのであろう。

三叉塾には30人ほどが通っており、その中に東郷平八郎、伊地知弘一、中村敦摸がいた。東郷はここから英国の水兵学校に進み、伊地知と共に海軍軍人となった。高取伊好と中村敦摸はほどなく慶応義塾に移り、引続き英学の勉強に励んだ。中村は慶応義塾を卒業後、長崎県小浜町に私塾を開き、教育者として生きた。伊好とは終生の友であった。中村は次のように語っている。

東郷平八郎

「当時の高取は学業が特に優秀だとは思わなかった。慶応義塾で彼はおおいに勉強したので、少し身体を害した程だった。それでも全く屈することがなかった。彼の性質は「ジリジリ」、「ネチネチ」という感じで執着心が強かった。兄の皓さんは才気煥発、学才があって時々奇抜なことをするので、ちょっと接しただけでもその才が表面的だということが分かるのだが、これに反し、(伊好は)温厚で、少しも浮薄の風がなく、自己を吹聴する言葉など一度も聞いたことがなかった」)

「高取伊好翁伝」の関係箇所を筆者が現代語訳

ついでに、後に海軍大将・元帥となる東郷平八郎に関する中村の評を引用しておこう。

「東郷は純然たる田舎者で、他人とまともに口をきくことさえできない有様だった。鹿児島の僻地に居て奇異な方言を使っていた者が初めて東京に出て来たのだから、無理もないことだったかも知れない。」

東郷の純朴さは多くの人の指摘するところだが、中村の評もその一例である。

国力の強化を急いでいた明治政府は、明治5年(1872年)、英国人ゴットフレーを招いて「鉱山寮」という官費学校を開いた。ふるさと多久に豊かな石炭鉱脈があることは分かっていたので、伊好周辺の人々は、伊好をこの学校で学ばせ、地元のリーダーとして迎えることを願った。慎重な伊好はここでも周囲の意見をよく聞いて熟慮するが、最終的に、新しい産業の担い手となって故郷に貢献する道をえらび、鉱山寮に入寮する。鉱山寮の教師は皆外国人で、講義はすべて英語で行われたようだ。三叉塾と慶応義塾での英語修養が役に立ち、伊好の猛勉強に拍車がかかった。伊好は2年後、鉱山寮を卒業した。直ちに工部省に採用され、高島炭鉱に赴任した。
 


 

(3)高島炭鉱

高島炭鉱は日本最初の炭鉱とされる。島の人々は古くから「燃える石」を生活に使っていたが、近代産業としての炭鉱は、長崎に住んでいた英国商人グラバー(Thomas Blake Glover)の活動によって幕を開けた。英国人フルトンが汽船を発明したのは1807年だが、19世紀の中ごろには日本にも欧米各国の汽船が入港するようになり、燃料としての石炭が有望な商品になってきた。グラバーは、長崎港を監督していた佐賀藩の藩主鍋島直正に対して炭鉱の開設を進言する。

トーマス・グラバー

藩の重臣の多くは慎重論だったが、ひとり松林源蔵が賛成したので直正は事業化を決意する。安政6年(1859年)、直正は高島炭鉱を佐賀藩の直轄とし、松林を藩主代理として派遣した。松林には「公留」という号を与えたが、これはCoal(石炭)の当て字である。直正のユーモアと共に新しもの好きの性格が伺われる。採掘の技術面を任されたグラバーは、インドにいた鉱山技師モーリスなど多くの外国人を招いて近代的な鉱山を建設した。

グラバーは積極的な事業家だったが投機的な動きもあり、このままでは高島炭鉱が外国人政商たちの手に渡りそうになったので、政府は明治6年(1873年)11月末、急遽「日本坑法」を制定して高島炭鉱を買い取った。翌年1月、工部省の吉井亨、伊東祐輔、オランダ人マーチンらが高島に入り、所有権譲渡の手続きが行われた。このとき高取伊好は官営炭鉱初代技師として同行し、そのまま高島に着任した。伊好は鉱山寮を2年で卒業したことになっているが、同時期に工部大学校で鉱山学を学んだ麻生政包や吉原正道が6年間在学したことと比較すれば、短すぎる印象がある。急遽発足した官営高島炭鉱の技師として赴任させる為の措置だったのかもしれない。

炭鉱所有者となった政府はすぐに国内有力者への売却を打診し、この年のうちに後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が炭鉱主に決まった。
 


(4)後藤象二郎

後藤象二郎は土佐藩士出身の政治家である。幕末期、坂本竜馬と共に大政奉還、東京遷都を唱え、その実現に最も功あった人とされる。初期明治政府の参議となったが、明治6年(1873年)の政変で野に下り、以後は自由民権運動と政党活動に力を注いだ。

相撲が強く、気宇壮大な豪傑で、学識、人望、指導力があったが、緻密な計算は苦手だった。中岡慎太郎によれば、「今日、天下の人物の力量において西郷隆盛と後藤象二郎に並ぶ者はいない。西郷は日に15里歩くと言えば間違いなく15里歩いてみせる。後藤は自ら20里歩くと言いながら実際には16里しか歩かない。だから言葉をすべて信じる訳にいかないのだが、それでも西郷と比べれば確かに1里だけ多く歩く。」

後藤象二郎

政治活動と遊びで借金がかさみ、破算しそうなので、少年時代からの親友である板垣退助が必死の思いで金の算段をして届けると、本人は料亭で豪遊していたことがある。勝海舟も何とか助けてやろうと思い、密かに後藤の借金の額を調べさせたことがある。それが桁外れなのを知って驚き、「後藤はアジアには太すぎる動物なるぞ」と言ってあきれた。陸奥宗光も「後藤は外国帝王の風姿度量を備えている」と語っている。周囲を困惑させる素行をしても、憎まれない人物であったようだ。

このような後藤であったから、もともと炭鉱経営自体には熱心でなかった。自らの政治活動の資金源とすべく炭鉱を買い取ったので、いきおい、経営と技術面の指揮監督は11歳年下の高取伊好に頼るととなった。伊好は後藤の政治家としてのスケールの大きさに敬服していたので、期待に応えて奮闘した。

岩崎弥太郎

しかし後藤は結局、高島炭鉱を維持することができなかった。土佐藩士仲間で三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎(いわさきやたろう)に売却を打診した。岩崎は伊好の兄鶴田皓の友人でもあった。後藤と岩崎は、共通の友人である福沢諭吉を仲介人に立てて話を進めた。こうして明治14年(1881年)、高島炭鉱の経営権は三菱社のものとなり、本格的な産業資本家による経営がスタートした。明治22年(1889年)には福岡県の三池鉱山が三井物産に落札され、いよいよ、我が国の二大鉱山を手にした三菱・三井が炭鉱の巨利を糧に成長する時代が始まった。日本資本主義の発展における大財閥の時代である。


 

(5)高島における高取伊好最期

技師として高島に赴任した伊好は、技師長、第二坑長、第一坑長、第二支配人等を歴任した。技術陣のリーダーとして生産を指導しただけでなく、経営にも関与した。後藤はほとんど東京にいたので、重要案件の審議決済のために、伊好は高島と東京を頻繁に往復した。この過程で大隈重信、岩崎弥太郎らと知り合うこととなった。後藤は緻密さを欠く経営者であったが、よく伊好を信頼し、若い伊好が手腕を発揮できるよう取り計らった。

しかし高島の経営は困難を極めた。

技術面では、この炭鉱は海底鉱脈を掘るので出水が多く、また岩盤が軟弱で坑道の崩落事故が多かった。落盤事故を未然に防ぐために、伊好は自ら「坑内杖」と呼ぶ樫の杖を持ち、壁を叩いて回り、その音で異常を見出すという方法をとった。
硫化水素などの可燃性有毒ガスが発生するため、火災・坑内爆発・ガス中毒が頻発した。
輸送は船便に頼るしかないので、出荷計画が天候に大きく左右された。特に台風の季節の操業計画が難しかった。
三菱への譲渡時、狭い島内に約4300人が住んでいたので、九州本島からの食糧輸送も大仕事だった。特に飲料水の確保が難しく、島民を苦しめた。
坑夫の気質が荒く、喧嘩口論が絶えなかった。経営陣ともしばしば対立したが、伊好の重厚で粘り強い性格が、こうした紛争の解決に役立った。
炭鉱が上げる利益の多くが、鉱主の借金返済と新たな政治活動資金に注ぎ込まれるので、財政はいつも苦しかった。

明治9年(1876年)、大火災が発生した。通常の消火活動では追いつかず、後藤の判断を仰いだうえで、全坑道を海水で満たすという非常手段がとられた。この復旧に半年を費やした。続いて明治11年(1878年)には坑道の壁が破れて海水が突入し、20余名の命が失われた。危険の第一報を聞いて現場に駆けつけた伊好も激流に飲み込まれた。辛うじて救出されたが人事不省の状態が数日間続いた。この二度にわたる壊滅的な事故にも拘らず高島炭鉱は復活し、明治13年(1880年)には一日1500トンの産炭量を記録するに至った。この復活を指導した高取伊好の名声は高まった。

後藤時代の高島炭鉱は結局、三菱への売却という結果に終わったので、事業としては失敗と言わざるを得ない。しかしこの7年間に、高取伊好は炭鉱経営に必要な、ありとあらゆる経験を積んだ。人脈と名声も獲得した。岩崎弥太郎、川田小一郎(後の日銀総裁、連載第7回参照)、荘田平五郎(連載第8回参照)ら三菱幹部の誘いによってしばらくは三菱高島炭鉱の発足に尽力したが、翌明治15年(1882年)、自らの強い意志によって退職した。32歳の高取伊好は、国からも財閥からも独立した事業家として、ふるさと佐賀県における炭鉱経営に乗り出そうとしていた。

明治40年(1907年)頃の高島炭鉱

昭和45年(1970年)頃の高島。炭鉱施設と高層住宅が島を覆っている。高島炭鉱は昭和61年(1986年)まで操業された。(写真は共に長崎県高島町のホームページより転載。)

 

(次号に続く)