「去華就実」と郷土の先覚者たち

第22回 吉岡荒太 (上)


唐津の西に隣接する肥前町に、高串という漁港がある。

吉岡荒太はこの地に生まれ、東京に出て近代医学を勉強したが、途中からドイツ語教師へと転進し、東京至誠学院を設立した。この学校の生徒となった女医・鷲山弥生と結婚してからは、教育と医療が夫婦共同の事業となり、東京至誠学院と東京至誠医院を経営した。更にわが国初の女医養成機関である東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を設立し、女医の育成と女性の社会的地位の向上に貢献した。

吉岡荒太(50歳の頃)

(1)少年時代

吉岡荒太(よしおかあらた)は明治元年(1868年)、佐賀県肥前町の高串(たかくし)に生まれた。当時は入野村字高串(いりのむらあざたかくし)と言った。海岸線近くまで山が迫った小さな入り江で、唐津へは山越え5里(20キロメートル)、伊万里へは海路6里(24キロメートル)という不便なところであった。今は道路が完備して便利になったが、美しい村の風景は昔のままで、釣り人たちが訪れる仙境である。

高串の入江(2003年9月)

高串漁港(2003年9月)

吉岡家は高串の旧家で、祖父の玄白、父の玄雄は共に医者であった。玄雄は個性的な人物だった。伝統的漢方医学を守り、往診したさいには、患者の家に酒を出させて飲んで帰った。「日本は神の国だから髪を切ってはならない」という信条(これは語呂合わせだろうか?)を頑固に守り通し、84歳で亡くなるまで髪を伸ばし放題だった。かなりの変わり者だが、それでも村の人々には信頼されていた。

吉岡荒太の生家

荒太は玄雄の長男で、姉が一人、妹が一人と、弟が3人いた。次男は加津馬(かづま)、三男は松造(まつぞう)、四男は正明(まさあき)といった。変人の父を持つ6人きょうだいの長男として、早くから一家を支える責任を負わされた。入野村の小学校を出ると唐津の大成校に進み、次いで福岡県の前原中学校を卒業した。父は自分の後を継いで村の漢方医となることを勧めたが、荒太は東京に出て近代医学を学びたいと主張した。賢い祖母のとりなしで、明治19年(1886年)、やっと上京を許された。19歳であった。

八坂神社の東隣にある吉岡荒太の生家跡(2003年9月)。家屋は1990年代に解体され、今は更地となっている。石垣だけが残っている。

(2)苦学生

上京した吉岡荒太は、同郷の先輩である藤原秀穂の家に世話になった。藤原はフランス語の私塾を開いていた。荒太は第一高等中学校に入学したが、郷里からの仕送りが途絶えがちだったので、高等中学1年の時から、湯島新花町の私塾でドイツ語を教え、学資を稼いだ。東京に出る前から、かなり高度のドイツ語を身に付けていたようである。

高等中学校3年の時、荒太はチフスにかかって大学病院に入院する。治療費が払えないので困ったが、施療患者(経済的な理由で医療費を免除される患者)にしてもらって治療を続けることができた。チフスからの回復途上、こんどは脚気にかかり、ついに学校を退学せざるをえなくなった。住まいを千葉に移して病気の療養に努めながら、独学で医学の勉強を続け、医術開業国家試験の前期試験に合格した。次いで後期試験の準備に入った。

このかん、郷里より弟(次男)の加津馬が、次いで三男の松造が上京して来た。加津馬は英語の勉強がしたいと言い、松造は医者になりたいと言う。病気がちの身ながら、弟たちの世話をせねばならない。荒太は、三人分の生活費と学資を稼ぐという課題に取り掛かった。そして残念なことだが、医者になりたいという自分の希望は、ほどなく諦めることとなる。ずっと後日のことになるが、三男の松造と、更に遅れて上京した四男の正明を立派に医者に育て上げた。


(3)東京至誠学院、そして結婚

吉岡荒太はドイツ語の高い能力を持っていたので、これで生活費と弟たちの学費を稼ぐことにした。明治24年(1891年)、本郷金助町に東京至誠学院という私塾を開いた。東京には壬申(じんしん)義塾という私塾があってドイツ語を教えていたが、それに続いて開設された新しいドイツ語塾は人気を呼び、しだいに生徒が増えていった。金助町の家が手狭になったので、2年後には本郷元町に移った。

本郷元町の東京至誠学院には30人ほどの学生が通っていた。10畳くらいの座敷に机を並べて教室とし、それ以外に書生部屋兼個人教授の部屋、そして院長らの住まいがあった。院長の吉岡荒太が一人で教育を担当し、書生一人が身の回りの世話をしていた。これに2人の弟を加えた男ばかり4人が住んでおり、4人分の生活費と学費を荒太が一人で稼いでいた。

明治28年(1895年)6月、この東京至誠学院に、鷲山弥生(わしやまやよい)という女性が入学してきた。

鷲山弥生

24歳という若さだが、すでに医師国家試験に合格して2年半の開業経験もあった。次は近代医学の本場ドイツへの留学をめざして、ドイツ語の勉強にやって来たのだった。下宿が近いので毎朝早く通ってきて、書生部屋で荒太から個人教授を受けた。二人は勉強以外のことはほとんど話さなかった。

至誠学院の住人の中で最も気が利くのは、三男の松造だった。男所帯に飛び込んで来たちょうど良い年頃の女性を逃してはならじと、松造は弥生に対して、兄貴の嫁になってくれと頼む。弥生は、しばらく学院に通っているあいだに、一家の様子をだいたい理解していた。「とにかく吉岡が稀に見る弟思いで、また弟たちが吉岡を尊敬し頼りにしている様子は、はたから見ていて美しいものがありました」(吉岡弥生伝)と語っている。

こうして明治28年(1895年)10月、吉岡荒太と鷲山弥生は結婚した。弥生が開業していた東片町の家に吉岡三兄弟が来て一緒にそばを食べながら、お祝いと誓いを立てるという、4人だけの結婚式であった。荒太28歳、弥生25歳であった。


(4)至誠学院の発展

結婚後、東京至誠学院の事業は拡大する。荒太以外に数名の教師を雇って、ドイツ語以外に英語、漢文、数学を教えるようになり、学校の性格も高等学校受験者のための高等予備校とした。更に地方出身者のための寄宿舎を持つようになった。140-150人ほどの学生が集まり、一人前の学校らしくなった。弥生はしばらく医者生活を中断して、学院の実務面を担当した。

荒太は従来から、地方にいる勉強熱心な学生たちのために、至誠学院で自分が行っている講義の内容を謄写版刷りにして通信教育を行っていた。結婚の翌年、この講義録を活字にして、国文社から刊行した。「独逸学講義録」と題したこの本は36巻からなり、その序文には、通信教育にかける吉岡荒太の決意が書かれている。次いで大学に行かずに医者を目指す人々のために、日独対訳の「医書独習講義録」全12巻を刊行した。

学校の授業料と講義録の販売だけでは生活費が足らなかったので、この頃の荒太は、外務省、陸軍省、内務省などから持ち込まれるドイツ語文献や資料の翻訳をしている。荒太が口述して弥生が筆記した。

「独逸学講義録」の序文

吉岡荒太の
「独逸学講義録」の表紙
(明治29年1月)

(次号に続く)