走らんか副社長
【北国街道 長野行】

104区(連載141回) 川中島~長野

前回から長野県内を北上する旅を再開したのだが、犀川を渡るときに見える風景、近影の山の奥に雪化粧した山々が輝いていて美しい。しかし残念ながら、山に詳しくない私には何という山かわからない。同伴者が、休日にはしょっちゅう登山をしている山ガールである職場の同僚に写真を送って問い合わせたところ、即座に鹿島槍ヶ岳!と返信が来た。いやはやなんとも、おそれいりました。


前回到着した川中島について書こう。古戦場跡には首塚が残っていて、これは武田氏と上杉氏が数次にわたって戦っていた際、武田方の城主が敵味方の別なく戦死者を手厚く葬ったもの、と案内板がある。このことを知って感激した敵方の上杉謙信は、その後駿河の今川氏と相模の北条氏が結託して武田氏に塩を売ることを止めた(今でいう経済制裁だな)ことに同調せず、武田氏に塩を送ったという。このことから、戦いの場面以外で相手が困っていれば、その弱みにつけ込むのではなく助けることを「敵に塩を送る」と言うようになった。

しかし、この逸話が事実なのかどうかは疑問で、上杉氏は塩の流通を禁止しなかっただけで、無償で送ったのではないという説や、この話そのものが作り話だという説もあって、よくわからない。
 ともあれ、この逸話は遠く唐津まで影響している。毎年11月に行なわれる唐津くんちでは、武田信玄の兜、上杉謙信の兜を含む14台の曳山が市内を巡行するのだが、御旅所と呼ばれる砂地に引き込む時など、ここぞとばかりに力のいる所では清めの塩をまいて勢いをつけている。しかし、武田信玄の兜だけは、貴重な塩を無駄にしてはならない、と塩をまくことをしない。

また、醤油の一大産地である千葉県の野田では、“信玄公御用達 川中島溜(たまり)醤油”が坂倉味噌醤油さんから販売されている。野田の醤油の歴史は、永禄年間(1558~1570)に飯田市郎兵衛氏が溜醤油をつくったのが始まりとされており、これを武田信玄に送った記録が残っているそう。


ここで少しばかり醤油の話をしよう(醤油メーカーのHPなのだからたまにはこんなことがあっても当然だろう)。現在、醤油は5つの種類に分類されている。すなわち、

  1. 濃口(こいくち)醤油:普通に醤油と言えばこれ、
  2. 淡口(うすくち)醤油:京料理などで使われる色の薄い醤油、
  3. 溜醤油:東海地方で大豆を主原料としてつくられる濃厚で色の濃い醤油、
  4. 再仕込(さいしこみ)醤油:一度できたものを再度仕込んだ濃厚な醤油、一般的な刺身醤油がこれ、
  5. 白醤油:愛知県で生まれた淡口よりもさらに色の薄い淡白な醤油、だ。

ちなみに、野田の製造元で購入した川中島溜醤油は、商品名は溜醤油だが、品質表示上は再仕込み醤油だった。溜醤油は醤油の発祥とも言われていて、今は濃口醤油が圧倒的な関東でも、最初は(今の品質表示上の定義とは違って)溜醤油が起源だったのだろう。
 ところで、どうして関東の醤油屋が甲斐の武田氏に醤油を送ったのだろうか。なんだかおいしい調味料があるという評判を武田氏が聞きつけて取り寄せたのか、あるいはその頃この地を支配していた有力者が、武田氏に忠誠を示す証として送ったのか、などと勝手に想像する。
 塩を送られたり(真偽は不明)、醤油を送られたりした武田氏だが、今は甲府に本社があるテンヨ武田さんが醤油をはじめとする各種加工食品を製造しておられる。


この後、長野市街をさらに北上して、有名な善光寺にたどり着く。詳しくはまた次回に書くことにするが、お寺の本堂にはなぜかエンマ大王様も鎮座しておられた。これは拝まなければ。「そのうちそちらにお伺いしますので、その時にはなにとぞ寛大なるお裁きをしていただきますよう、よろしく、よろしくお願いいたします」と手を合わせたのだが、聞いていただけたのかどうか。「そんなこと知ったこっちゃないわい」と言われたような気もする。

2023年1月

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