「去華就実」と郷土の先覚者たち

第2回 戊申詔書


「去華就実」という言葉が多くの日本人に知られるきっかけとなったのは、1908年(明治41年)に発表された「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」である。宮島醤油の社是もこの詔書からとられている。「詔書(しょうしょ)」とは、天皇が国民に向けて発する重要文書のことである。


戊申詔書とは何か、まずその時代背景から見てゆこう。1867年の明治維新によって日本は幕藩体制を廃し、立憲君主国家としてその国力を高め、欧米の強国に追いつくことを目指した。明治という時代である。西洋文化を摂取し、製鉄など近代重工業を興したことにより、国民総生産は急速に伸びた。同時に軍事力も飛躍的に強化された。1894-95年(明治27-28年)の日清戦争において中国(当時は清(しん)王朝の国家であった)を破り、次いで1904-05年(明治37-38年)の日露戦争においてロシアに勝利して、日本は経済的にも軍事的にも世界の強国の一角に名を連ねるまでになった。


戦争は国内産業を刺激し、明治30年代は空前の好景気となった。また、これは歴史の常であるが、戦争に勝った国の人々にはおごりが生まれる。アジア各国が西洋国家の侵略にさらされていた時代に、ひとり日本だけが西洋に対抗する強国となった事態は、日本人の中に民族的優越感と傲慢不遜(ごうまんふそん)な風潮を生んだ。これに反発したアジア各国では、激しい抗日・排日運動が生まれた。いっぽう東京には鹿鳴館(ろくめいかん)という、上流階級用の社交クラブが作られ、国の指導者たちが連夜、欧米の要人を招いて舞踏会を開き、浪費に明け暮れた。その結果、日露戦争後の国家財政は多量の無駄を含んで戦前の3倍規模になった。庶民のあいだではギャンブルが流行し、投機ブームが起こった。

こうした風潮は、約80年後、1980年代後半の日本に起こったバブル景気と似ている。現在の日本はバブル後遺症から立ち直るための苦闘の最中にあるが、明治バブルにおいても、国家規模での立て直し事業が行われた。日露戦争後の財政膨張策を推進した西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣に代わって1908年(明治41年)、政権を担った桂太郎は、国家財政を緊縮、予定されていた大博覧会を延期、馬券の販売を禁止するなど、次々に改革を実行した。こうした改革の集大成として、明治天皇による国民への直接の訴えという形で同年10月13日、「戊申詔書」が発表された。


戊申詔書の本文は、まず、諸国間の友好、国際平和を訴える内容で始まる。

「方今人文日に就り月に進み東西相倚り彼此相済し以てその福利を共にす」

(目下、人類社会は、月日の進行とともに、東西の世界が互いに依存しあい、国々が助け合い、そのことによって福利を共有することができるようになってきている。)

「国交を修め友誼を惇し列国と共に永くその慶に頼らむことを期す」

(国交を結び、友誼をあつくし、諸外国と共に永くその恩恵に頼ってゆこうと思う。)

「顧みるに日進の大勢に伴い文明の恵沢を共にせむとする固より内国運の発展に須つ」

(振り返ってみれば、今日の東西融和の流れに沿って文明の恵みを受けることは、国内の発展のためにも不可欠のことだ。)

次いで現在の日本人に必要な姿勢が述べられる。

「戦後日なお浅く庶政益更張を要す。宜く上下心を一にして忠実業に服し、勤倹産を治め、惟れ信惟れ義、醇厚俗を成し、華を去り実に就き、荒怠相誡め自彊息ざるべし」

(わが国は戦後なお日が浅く、各方面において今一度、緩んだ弦を張りなおすように、姿勢を糺す必要がある。地位の高い者もそうでない者も心をひとつにして忠実に仕事に励み、節約して生計を整え、信と義を重んじ、人情に厚い習慣をつくり、華やかなことを退けて実質あるものに力を注ぎ、乱暴や怠慢を互いに戒め、自らすすんで絶えず努力しなければならない。)


国際社会の一員としての自覚を持つこと、そして質素で誠実な生き方をすることを訴えたこの詔書は、永く、国民精神の規範として語られることとなった。なかでも「華を去り実に就き」という言葉は教育者たちに注目された。早稲田実業学校は「去華就実」を校是と定め、岡山市にある就実学園は校名に冠した。

ところで、古くから知られる日本の四字熟語には、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」、「捲土重来(けんどちょうらい)」など、中国の故事に題材をとったり、中国の古典に典拠を持つものが多い。私はこの連載執筆時(2002年)、「去華就実」にはそうしたものが見当たらず、我が国で創作されたものだろうと記した。しかしその後、複数の研究者の方から、「去華就実」が中国の古典に見いだされるとのご指摘を受けた。そうした情報をご教示いただいた方々に感謝申し上げます。下記の参考文献には、就実学園の先生方等によって進められている研究が記されています。


参考文献:

  • 芳村弘道、就実女子大学日本文学会会報「なでしこ」第22号1頁(1993年、就実女子大学日本文学会)
  • 石田省三、「吉備地方文化研究」第21号99頁(2011年、就実大学吉備地方文化研究所)