「去華就実」と郷土の先覚者たち

第31回 宮島傳兵衞 (一)


七世宮島傳兵衞(みやじまでんべえ)は宮島醤油の創業者である。幕末から明治初期にかけて、海運業を基礎に多彩な事業を展開したが、遠州灘沖での石炭輸送船の遭難という悲劇をきっかけに、より永続的な事業への転進を決意し、明治15年(1882年)、唐津の地に醤油と味噌の醸造所を作った。傳兵衞の波乱に満ちた生涯を記すことで、この連載「去華就実と郷土の先覚者たち」を閉じることにしたい。

七世宮島傳兵衞

(1)宮島家のルーツ

徳川後期以前の宮島家について明瞭な史料は残っていないが、伝えられるところによれば、安土桃山時代にその足跡がある。豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻するにあたって、全国の大名を肥前の名護屋(なごや)に集結させた。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき、1592-1598年)と呼ばれる。秀吉の側近の中でも、四国伊予・今治の藩主であった福島正則は勇猛な武将として知られているが、その舟手役人に宮島という男がいた。福島軍の海上物資輸送をしていたという。1598年、秀吉が死去したので朝鮮侵攻は打ち切られ、大名たちは各々の領地に帰ったが、この男は名護屋に残り、次いで長崎県の志佐(しさ)という漁村に移って船乗りとしての生活を送ったとされる。言い伝えに過ぎないが、さほど荒唐無稽な話ではないと感じられる。

現在の名護屋城址

(2)六世傳兵衞(清左衛門)と喜兵衛

宮島家の祖先はその後、唐津の水主町(かこまち)に移った。この頃から史実がはっきりしてくる。唐津藩の藩主が水野家であった時代、新町に近藤という浪人がいて、そこの男の子が宮島家に養子に来て、六世傳兵衞を名乗った。七世傳兵衞の祖父である。当時の宮島家は、水主町で「富田屋(とんだや)」という、魚屋を兼ねた小さな食堂を営んでいた。寿司などをふるまっていたという。

六世傳兵衞は魚屋の仕事に満足せず、唐津近郊の北波多村岸山に炭鉱を開業した。ところが良い鉱脈に恵まれず、出てくるのはガラクタばかりで、散々財産を注ぎ込んだあげくに撤退した。この失敗を唐津の町の人々が面白がり、戯れ唄にしたものが伝えられている。

「富田屋(とんだや)がとんだところに炭鉱(やま)をして
味噌なし、米なし、醤油なし
正月親方、盆頭領
仕繰り繁昌、石炭(いし)は出んべえ」

六世傳兵衞は自身の炭鉱事業には失敗したが、唐津炭の仲買いをめぐる紛争の解決に奔走した。天保10年(1839年)、水主町の問屋が炭鉱主たちに反抗して川舟の運行を停止するという、一種のストライキを起こした。このとき六世傳兵衞が搬送を買って出て炭鉱の危機を救った。唐津市歴史民俗資料館には、この時の六世傳兵衞の活躍ぶりが紹介されている。六世傳兵衞はのちに清左衛門を名乗った。

現在の宮島醤油本社がある船宮町一帯は、かつて新堀(しんぼり)と呼ばれていた。唐津藩の大規模土木工事によって松浦川の河口が大きく西へと変えられて唐津城の外堀を兼ねる形とされ、城下には掘や運河が整備された。この運河から河口を経て玄界灘へと繋がる水運の拠点が新堀である。今の「船宮町」という名は、ここに唐津藩の御船奉行所があったことからきている。

明治40年代の松浦川河口(写真提供:唐津市)。
現在の松浦川河口。
松浦橋は右側(東側)に移された。
現在も残る新堀の運河。
海の潮汐によって水位が上下する。両岸は宮島醤油本社工場の一角。

この新堀に住む内山喜兵衛(うちやまきへえ)という人が宮島家の当主として迎えられた。喜兵衛は夢想家であった。当時、玄界灘の小川島などでは捕鯨が盛んだった。喜兵衛は捕鯨に熱中して3年間も家に帰らず、家族を顧みなかったので、六世傳兵衞の怒りに触れて離縁されてしまった。家の当主が勘当されるという、異例のことであった。喜兵衛はやむなく江戸に出て生糸の仲買商をして生計を立て、第一銀行の生糸検査係、印刷局御用係などの職に就いたが、米穀相場に手を出して再び大失敗した。失意のうちに唐津に帰り、息子の世話になって「淡路屋」という紺屋(染物屋)を営んで余生を送った。

加部島の「風の見える丘公園」
から小川島を望む。

今も小川島に残る鯨見所

(3)七世傳兵衞の生い立ち

七世宮島傳兵衞は、嘉永元年(1848年)、唐津水主町において、父喜兵衛、母ツルの長男として生まれた。幼名を治三郎といった。数え年9歳になった安政3年(1856年)、新堀にあった高浜茂平の寺子屋に通い始めたが、12歳で退学した。学歴はこれがすべてである。父喜兵衛はもともと家にはいない人だったし、治三郎が8歳の時、正式に離縁されたから、富田屋では当主不在のまま女手を頼りに魚屋を営んだ。やり繰りは苦しく、幼い治三郎も寺子屋に通うどころではなく、天秤棒を担いで魚を売り歩いた。佐賀まで魚を売りに行った帰り道、代金を落として泣きながら帰ったことがあったと後年語っている。

治三郎が数え年13歳になった万延元年(1860年)、祖父六世傳兵衞は孫に名を譲って隠居した。治三郎は七世傳兵衞を名乗り、一家の当主となった。祖父は清左衛門と改名したが、4年後に死去した。傳兵衞(以後、七世傳兵衞を指す)はいよいよ一家の大黒柱となった。母ツル、叔母ヨシなど宮島家の女性たちは気丈で、若き傳兵衞をよく支えた。慶応元年(1865年)、傳兵衞は自ら起こす最初の事業として、小川島捕鯨組の仲買人となった。翌慶応2年(1866年)、19歳の時、新町三浦屋の福井ギンと結婚した。


(4)20歳の大冒険

船乗りの先祖を持ち、捕鯨家の父を持つ傳兵衞としては、魚屋稼業から海運業へと雄飛するのが夢であった。20歳の傳兵衞が石炭売買と海運に乗り出した顛末は、「自伝」に克明に記されている。

当時、富田屋は唐津地方の炭鉱を相手に商売をしていた。魚を売るだけでなく、鉱夫向けの簡易宿泊所もやっていた。慶応3年(1867年)は石炭不況で、「鉱業人の宿料その他種々」(「自伝」より)の支払いが滞り、傳兵衞はやむなく代金の代わりに石炭を安く買い受けることとなった。翌明治元年(1868年)6月、帆船を借用してこの石炭を積み込み、傳兵衞自身も乗船して兵庫に向けて出帆した。兵庫(神戸)・大阪の商人相手に、初めての石炭販売を試みて苦労し、30日間以上も粘った結果、8月中旬になってやっと売りさばくことができた。

唐津での石炭の仕入れ値が1万斤あたり17円、売り値が27円、粗利益10円から輸送料7円を引いた結果、3円の営業利益が残った。これで和船を大阪で買い求め、「住福丸」と命名した。念願の船を手にしたはよいが、これで費用が尽きてしまい、唐津に帰る金がない。困っていると、古舘嘉助という翁が唐津から大阪に来ていた。この人の紹介で「唐津蔵屋敷紙方役所」という藩の出先機関に借金を願い出ることができた。これで水夫らを雇い入れ、10月下旬に大阪を出帆した。京都にいた田口平介、呼子の西念寺和尚らが便乗した。ところが航海士を雇う金がなかったのだろう。舵の取り方ひとつ知らない傳兵衞が船頭なので悪戦苦闘の旅となり、11月上旬、やっとの思いで唐津に帰った。航海にも石炭販売にも素人であった傳兵衞が大胆にも乗り出した半年間の冒険であり、大仕事であった。

折しも明治維新の年、20歳の傳兵衞が行ったこの冒険は、傳兵衞の海運家、石炭商としての出発点となっただけでなく、唐津炭が初めて関西に出荷された出来事でもあった。


(5)家族の反対と海運業の危険

傳兵衞が住福丸に乗って帰国すると親族会議が開かれた。祖母トヨ、母ツル、叔母ヨシなどは傳兵衞の行為に猛反対した。宮島家のこんにちの困窮を招いた原因は、父喜兵衛が捕鯨と航海に熱中して長期に家を空けたことにある。働き者の傳兵衞が成人し、やっと安堵しようという矢先、その傳兵衞が父に倣って再び捕鯨に手を染めているだけでなく、自ら船を持って海運業に乗り出そうとしている。これでは再び一家の崩壊を招くというのである。実にもっともな心配である。

しかし、愛船住福丸を手にした傳兵衞は、母らの制止を振り切って、海運の道を突き進んだ。長旅後の休息もろくにとらず、11月下旬から12月下旬にかけて石炭を積んで長崎を往復し、翌明治2年(1869年)には、石炭を下荷に、唐津蔵屋敷紙方役所の御用紙を上荷として、再び神戸・大阪を往復した。

明治4年(1871年)、傳兵衞は和船をもう一隻購入し、「富運丸」と名づけた。母ら家族の心配は募ったが、それに追い討ちをかける事件が起こった。富運丸が海賊に襲われたのである。瀬戸内海を航海中、讃岐の国多度津港沖で、漁船2隻に乗った海賊に襲われ、金5両2歩、米76俵、羽織2枚、旅差刀1刀などを奪われた。翌朝多度津港に入港して警察に届けると、戊辰戦争後、あちこちで海賊が出ているという。
 

(次号に続く)