「去華就実」と郷土の先覚者たち

第21回 長谷川芳之助


唐津藩士の子に生まれた長谷川芳之助(はせがわよしのすけ)は明治初期、大阪、東京、米国、及びドイツで化学、鉱山学、及び製鉄技術を学び、日本初の工学博士となった。

学界での活躍を期待されたが、帰国後は三菱社の鉱山部長を務め、民間にあって鉱工業の進歩に貢献した。特に製鉄業のパイオニアとして知られ、福岡県の八幡に官営製鉄所(現在の新日本製鉄八幡製鉄所)を創設するプロジェクトを指揮した。技術者として活躍した期間は短かったが、抜群の頭脳と大胆不敵な行動で知られる個性派であった。

長谷川芳之助
(写真提供:唐津市)

(1)少年時代

長谷川芳之助は安政2年(1855年)、唐津城内に生まれた。長谷川家は代々、小笠原家の家臣として重要人物を輩出しており、芳之助の父、長谷川善兵衛久徽は一刀流の使い手として知られた。唐津城南三の丸にある唐津神社の西側、西の門に近い城壁際に、長谷川家はあった。このあたりは今も三の丸西壁の石垣がよく残って、往時の雰囲気を伝えている。

現在の唐津城南三の丸の西壁(2003年)
このあたりの城壁内に長谷川芳之助の生家があった。

辰野金吾によれば、久徽の職業は「探索」つまり隠密だったという。確かに、久徽は藩命で大阪に向かった帰路、長州藩の兵士に隠密容疑で捕まったという記録がある。佐幕派であった唐津藩の藩士が侵入したので、長州藩は警戒したのだろうが、久徽が本当に隠密だったのか、誤解だったのかは定かでない。

芳之助は8歳のころ、辰野金吾らと共に野辺英輔(のべえいすけ)の私塾に通って学んでいる。野辺は唐津藩のお抱え漢学者であったが、脚が不自由だったので毎日は登城せず、自宅にあって子供たちに学問を教えていた。辰野は芳之助のことを、「遊んでばかりで勉強しない。それでも抜群の秀才だった」と記している。努力家の辰野とは正反対の子供だった。

慶応3年(1867年)、芳之助は13歳の時、父と共に大阪に出た。大阪洋学校に入り、何禮之(がよしゆき)のもとで英学を修めた。豊川良平、日下義男らが級友だが、途中からは芳之助が助教となって彼らに教えている。芳之助に対する評価は、「学業優秀、乱暴抜群、悪逆者の標本」というものである。かなりの乱暴者だったようだ。

悪行の数々は、ややひいき目に見れば正義感と熱血に基づくもので、素行の悪い級友を「ふとんむし」などで手荒く懲らしめて退学に追い込んだり、風紀が乱れているとの報告を受けて視察に来た役人に反発して、彼らのために学校が用意した昼食を食べてしまったりという具合である。明治維新は大阪で迎えたが、明治5年(1872年)、東京の開成学校へと進んだ。


(2)貢進生

明治維新に伴う中央での学制改革について、少し説明しておこう。江戸にあった幕府直轄の教育機関のうち、代表的なものは昌平坂学問所、開成所、医学所であった。新政府はこれらを各々、大学校、大学南校、大学東校と改めた。この3校が母体となって、いくつかの変遷を遂げながら東京大学が形成される。大学南校は途中、開成学校、東京開成学校と呼ばれた時期もあり、今の東京大学法学部、理学部、文学部の母体となった。この連載に登場した人としては、フルベッキ(J. H. Verbeck)と高橋是清が大学南校の英語教師として教鞭を執っている。

学士会館(2003年8月)。東京都千代田区神田錦町の一ツ橋交差点にある。ここにかつて大学南校があった。

学士会館の玄関前に建つ「東京大学発祥の地」記念碑。

明治3年(1870年)、政府は太政官令によって各藩からその石高に応じて1-3名の優秀な学生を募り、これらの学校に官費で入学させる措置をとった。「貢進生(こうしんせい)」と呼ばれた。長谷川芳之助は明治5年(1872年)、唐津藩の貢進生に選ばれて大学南校に入った。大学南校の教師でありながら、芸者遊びが過ぎて職場を追われた高橋是清が、唐津で耐恒寮を開いたのが明治4年(1871年)だから、長谷川は高橋と入れ替わりに入学した。長谷川は、唐津の地で耐恒寮に集った生徒たちとほぼ同年代だが、彼らよりひと足早く中央での学問を開始したことになる。耐恒寮から巣立った曽禰達蔵辰野金吾麻生政包らが進んだ工学寮は、現在の東京大学工学部の前身で、長谷川が入った大学南校(東京開成学校)は東京大学理学部の前身である。

貢進生は各地から集められたエリートなので、明治6年(1873年)10月、東京開成学校の開業式には、政府高官を従えて明治天皇が臨席した。明治天皇に対して、理学生長谷川芳之助、杉浦重剛、南部球吾の3人が、「化学の功用十四条」と題する研究発表と演示実験を披露した(杉浦と南部のことは後述)。彼らがいかに前途を嘱望される学生であったかが伺える。


(3)創設期の東京大学理学部化学科

長谷川は明治7年(1874年)、予科を経て東京開成学校化学科本科に進んだ。この年、化学の教授として、英国から弱冠26歳のR. W. アトキンソン(Robert William Atkinson)が着任した。化学科の授業科目として無機化学、有機化学、製造化学、冶金学、および化学史が開講され、実習科目として一般化学実験、定性分析、定量分析、試金(鉱物の金属成分分析)があった。これらすべてをアトキンソンが担当した。これだけの科目を教えながら、7年間の日本滞在中に10篇の論文を書くなど、非常に立派な学者であった。特に、西洋人の眼で日本独自の化学を研究した藍染(あいぞめ)や日本酒の研究は、今も高く評価されている。
 アトキンソンは、上級生には各自に問題を与え、実験研究によって問題を解明し、その結果を卒業論文としてまとめることを義務づけた。東京開成学校化学科は、現在の東京大学理学部化学科へと発展して行くのだが、既にこの時点で、教育内容においては現代に通じるものが実施されていたことが分かる。長谷川と同期に化学科に進んだ学生は9人であった。いずれも後に各分野の指導者となった人々なので、かなりのことが分かっている。9人の名は、長谷川芳之助、松井直吉、南部球吾、桜井錠二、杉浦重剛、宮崎道正、高須碌郎、久原躬弦、西村貞である。学業面で、長谷川はほとんど常に首席の成績を残している。

このころ、明治政府は官費留学に関する制度を改めた。維新後の数年間に海外に派遣された留学生の数は多かったが、明治6年(1873年)に実態調査を行ったところ、海外での勉強ぶりが十分とは言えない者が相当数いた。いわば税金の無駄遣いである。そこでこの年、官費留学生をいったん全員帰国させ、改めて東京開成学校による厳格な資格審査を行って選別することにした。

こうして生まれた新制度のもとで、明治8年(1875年)、東京開成学校は在学生の中から優秀な11名を選抜して海外留学を命じた。化学科からは長谷川芳之助と松井直吉の二人が選ばれ、米国留学生となった。同期生のうち桜井錠二と杉浦重剛は翌明治9年(1876年)の留学生となり、英国に渡った。南部球吾は化学ではなく工学分野の留学生となって米国に渡った。西村貞は中途退学して教師の道を歩み、後に大阪師範学校の校長となった。同期生のうち残る3人、宮崎道正、高須碌郎、久原躬弦は引き続き在学して、明治10年(1877年)7月、東京帝国大学理学部化学科の第1回卒業生となった。

松井直吉は明治13年(1880年)に帰国して東京大学理学部教授となり、分析化学と有機化学を担当した。久原躬弦は卒業後も理学部に残って準教授を務めたが、翌年米国のジョンズ・ホプキンス大学(Jones Hopkins University)に留学して有機化学を研究した。Ph. D(Doctor of Philosophy, 日本の理学博士にあたる米国の学位)を得て帰国し、英国から帰った桜井錠二と共に理学部化学科教授となった。


(4)コロンビア大学からフライブルク大学へ

明治8年(1875年)、官費留学生として米国に渡った長谷川は、ニューヨーク市のコロンビア大学(Columbia University)に入学した。学科は化学科ではなく、鉱山学科であった。同年、唐津の隣藩である黒田藩の留学生、団琢磨(だんたくま)が、すぐ近くのマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology)の鉱山学科に入学している。二人は帰国後、各々、三菱と三井の鉱山事業の指導者となる。長谷川は明治11年(1878年)、鉱山学士(Engineer of Mines)の学位を得て卒業した。

純粋化学から工学への転進を果たした長谷川は、次第に国の基幹産業である製鉄に関心を抱き、当時の製鉄先進国であるドイツへの留学を決意する。米国から直接、ドイツに渡り、ドイツ南西部にあるフライブルク大学(Freiburg University)で製鉄技術を研究した。官費留学生の身でありながら本国に何の相談もせず、勝手にドイツに行ってしまったこの行為は、規律違反として問題となった。「悪逆者」の面目躍如である。
 


(5)三菱社と製鉄事業計画

明治12年(1879年)、ドイツから帰国した長谷川は、東京帝国大学理学部化学科の教授に就任するようにとの誘いを断って、三菱社鉱山部長の席を選んだ。三菱社を率いる岩崎弥太郎には、早くから製鉄事業の構想があり、長谷川の三菱入社は、この構想の中での布陣だったと言われる。それに、「乱暴抜群」では帝国大学教授の仕事は務まらなかったに違いない。三菱での最初の任地は備中(岡山県)の吉岡鉱山であった。ここで3年間過ごした。このかん、吉岡鉱山をわが国屈指の銅鉱山として育て、のちの三菱金属(現在の三菱マテリアル)の基礎を築いた。

吉岡鉱山での勤務を終えて東京に戻った長谷川は、以後、岩崎弥太郎の側近として三菱社の中で重きをなした。弥太郎と長谷川は明治政府の西郷従道、松方正義らに対し、わが国初の製鉄所設立を進言した。

岩崎弥太郎
国立国会図書館
「近代日本人の肖像」より

政府側の答えは、官営よりは、国の援助のもとで三菱社の事業として行うのがよいというものだった。そうしたなかで明治22年(1889年)、弥太郎の長男、久弥が米国に留学することになり、長谷川は米国まで同行した。岩崎家のだいじな御曹子の教育係を仰せつかったのだが、これは三菱社幹部たちによる一種の計略だったようだ。

三菱社の二代目指導者は弥太郎の弟、弥之助に決まった。製鉄という大事業は三菱にとって、まだ荷が重すぎると考えていた弥之助は、長谷川の留守中に、政府に対して、製鉄事業からの辞退を申し出た。このことを帰国後に知らされた長谷川は激怒した。

岩崎弥之助
『実業家偉人伝』
(国立国会図書館ウェブサイトより)

関係者のあいだでは、長谷川が弥之助を殴ったとさえ噂された。弥之助は製鉄事業に予定されていた資金を、丸の内の広大な土地を買い占めて、都心のビジネス街を建設する事業(丸の内再開発計画)に向けた(連載第6回参照)。兄弥太郎の側近であった長谷川を退け、荘田平五郎という新たな実力者の進言を採用したのである。

長谷川は、国力の源泉を生み出す基幹産業にこそ三菱は力を注ぐべきだと主張し、弥之助と荘田が手がけている不動産事業には猛反対した。「国の大計を忘れて岩崎家の私腹を肥やそうとするものだ」という激しい言葉で社長を批判する長谷川の処遇に弥之助も困り、明治22年(1889年)以後の数年間、わが国の製鉄事業計画は三菱か国か、民営か官営かでしばし迷走する。

こうして弥之助社長との確執が深刻化するなか、明治26年(1893年)、長谷川は三菱社を去った。これによって三菱の製鉄事業からの撤退が確定し、官営方針での製鉄所設立計画が本格的に走り出した。いっぽう長谷川は筑前藤棚炭鉱(明治28年)、豊国炭鉱(明治29年)に勤めた後、唐津に帰り、吉原正道(連載第11回)の経営する牟田部炭鉱(明治36年)に職を得た。また、唐津物産株式会社を設立して社長となった。いっぽう、力を蓄えた三菱が三菱製鉄(株)を創業し、自ら製鉄事業に乗り出したのは、大正6年(1917年)のことであった。長谷川の退社から24年が経過していた。


(6)官営製鉄所の設立

製鉄事業は明治政府の悲願であった。明治22年(1889年)から25年(1892年)にかけて、海軍省所轄の官営製鉄所のプランが帝国議会に幾度か提案されたが否決されている。明治25年(1892年)、海軍省に代わって農商務省が製鋼事業調査委員会の設置を提案し、これが閣議決定された。7人の調査委員が任命された。牧野毅(陸軍少将)、有馬武(大蔵省国債局長)、和田維四郎(農商務省鉱山局長)、原田宗助(海軍大技監)、野呂景義(工科大学校教授工学博士)、内藤政共(海軍大技師子爵)、長谷川芳之助(工学博士)の7人である。

当初、調査委員会は長谷川の主張に沿って民営製鉄所の線で検討を進めたが、三菱社の辞退表明を受けた農商務大臣が明治27年(1894年)、官営への方針転換を指示し、翌28年(1895年)、衆議院において官営製鉄所の設立が議決された。委員会は製鉄事業調査会と改称され、12名の組織として発足した。牧野と有馬が抜け、和田、原田、野呂、内藤、長谷川は引き続き委員を務めた。委員会が選任した技術者たちが次々に米国、ドイツなどに派遣され、技術面での準備も本格化した。

長谷川の態度として評価できるのは、自らの民営論が退けられた後も委員を辞職せず、新たに決まった官営路線のもとで職務を果たし続けたことである。製鉄に関する長谷川の見識は貴重であり、彼がここで短気を起こさず我慢して、製鉄所発足まで真剣に事業に取り組んだことは、彼自身にとっても、産業界全体にとっても、本当によいことであった。

委員会に課せられた重要案件のひとつは、製鉄所の場所を決めることであった。候補地は(1)東京横浜地方、(2)大阪神戸地方、(3)尾道三原広島地方、(4)門司馬関(下関)地方に絞られ、調査が始まった。様々な角度からの調査の結果、明治30年(1897年)、製鉄所を福岡県遠賀郡八幡村(おんがぐんやわたむら)に建設することが決まった。静かな農漁村だった八幡村に製鉄所を誘致するにあたっての苦労話は、昭和11年(1936年)に出版された「八幡市史」に詳しく記されている。最大の問題は、30万坪という広大な工業用地の確保だったらしい。農業、漁業に生きる人々に製鉄所とは何かを説明し、説得して土地を買い上げる作業は難渋を極めた。「八幡市史」によれば、「群疑を排斥し、衆難を除却し、以って当局者の惑いを解き、意を確かめ、遂にわが八幡町に確定せしめたるものは、長谷川芳之助、平岡浩太郎、安川敬一郎の3氏にして、…」と記されている。また、別の箇所には、招致運動を進める人々にとって長谷川は顧問格であったとも記されている。
 明治31年(1898年)、八幡村において本格的な建設が始まった。明治34年(1901年)5月、東田第一高炉(溶鉱炉)に火入れが行われ、製鉄所は操業を開始した。わが国の近代重工業の夜明けを告げる出来事であった。

明治34年(1901年)の八幡製鉄所
『製鉄所写真帖』
(国立国会図書館ウェブサイトより)

さて残念なことに、技術や産業の進歩に貢献するという意味での長谷川芳之助の活動は、官営製鉄所の設立を以って事実上、終わった。その後の長谷川は病に冒され、精神的に苦しい後半生を送った。


(7)精神の葛藤

長谷川は幼い頃から激情家で、しばしば周囲を驚かせる行動をとった。辰野金吾も、口論の末に長谷川が脇差(短刀)を抜くのを見て驚いたと語っている。大人になってもこの性癖は変わらず、数々の「武勇伝」を残している。三菱社では、役員会の席で岩崎家の親戚にあたる役員に対して「この馬鹿が!」と一喝し、弥太郎が「まあまあ、馬鹿は馬鹿でも何か使いどころがあるから…」とたしなめることがあった。九州の若松で汽車に乗るために炭鉱会社を出たのだが、事務所の時計が遅れていたらしく、乗り遅れてしまった。怒り心頭に達した長谷川は、事務所に戻るなり、柱時計を厳しく叱責し、ステッキで散々に打ちつけ、粉々に破壊してしまった。

辰野によれば「長所は熱誠、短所は過激」である。理詰めで正当な主張をするし、仕事に対して一途であり、私利私欲に基づく行動が全くないので、周囲は敬意を払っていたが、余りの激しさと強引さにたじたじであった。

明治30年(1897年)、医者は長谷川に対して、ついに精神疾患の診断を下し、隠居療養の生活に入るよう命じた。41歳という若さでの隠居だが、医者と賢妻の指示にはおとなしく従った。夫人の努力により、さしたるトラブルもなく、あらゆる社会活動から手を引くことができた。明治35年(1902年)までの約6年間、長谷川は世間との交渉を一切絶ち、治療に専念した。製鉄所の着工や創業にも立ち会っていない。

長谷川は自分の病気を「精神と肉体の衝突」と理解していた。自分は精神も肉体も強いから、この衝突が人一倍激しくて、それで病気になるのだという。この体験から、独特の物神二元論を展開した。「甚だしき時は、我一人のうちに二人の人がある如くに感じた」、「単一なるマテリアリズム(Materialism)の反対で、スピリチュアル・ビーイング(Spiritual Being)が必ず存在するものであると感じた」と語っている。

こうして晩年の長谷川は「心」の問題に関心を向けた。吉田松陰と山鹿素行を慕い、福沢諭吉を排斥した。福沢の言う独立自尊とは要するに経済的自立なのであり、それは西洋の拝金主義に毒された思想だと批判する。色紙には好んで「唯我独尊」と書いた。いかにも傍若無人・大胆不敵に生きた彼らしい言葉だが、実は仏教の深い悟りの心境を表す言葉なのだとして、気に入っていた。

社会復帰した長谷川は衆議院議員に立候補して当選するなど、引き続き社会活動への意欲を示したが、病後のことゆえ、十分に生産的な仕事ができたとは言えない。安定した職に就かず様々な活動をしたので「大居士大浪人」などと呼ばれた。明治45年(1912年)8月12日に没した。56歳であった。

長谷川芳之助の評伝としては、没後間もなく出版された山口正一郎著のものがある。辰野金吾ら関係者の寄稿もそこに収められている。


参考文献:

  • 山口正一郎著 「博士 長谷川芳之助」 (1913年、政教社)
  • 山路愛山著 「岩崎弥太郎」 (1914年、東亜堂書房)(「近代日本企業家伝叢書4」として1998年、大空社から復刻出版された。)
  • 「日本の化学百年史 ―化学と化学工業の歩み―」(1978年、編集:日本化学会)
  • 「八幡製鉄所八十年史」 (1980年、編集:八幡製鉄所所史編さん実行委員会、発行:新日本製鉄(株)八幡製鉄所)
  • 「八幡市史」 (1936年、編集:福岡県八幡市役所、復刻版の出版:1974年、発行:名著出版)