「去華就実」と郷土の先覚者たち

第20回 竹尾年助 (下)


(7)初期の唐津鉄工所

明治42年(1909年)、芳ノ谷炭鉱の付属施設として発足した唐津鉄工所は、最初は芳ノ谷炭鉱をはじめ竹内鉱業グループの鉱山用機械を設計製作した。しかしほどなく外部からの注文も受けるようになり、鉱山からの独立性を強めていった。例えば唐津港に入港する外国汽船の機械を修理した。国内の鉄工所、造船所などへ、旋盤、万能フライス盤などの汎用工作機械を納品した。東京高等工業学校、早稲田大学など教育機関へ実習用機械を納品した。

唐津鉄工所創業のころの竹尾年助
(写真提供:唐津プレシジョン)

第一次世界大戦後の不況のなかで、親会社の竹内鉱業は苦境に陥った。竹内明太郎は、芳ノ谷炭鉱を三菱合資会社に売却したが、唐津鉄工所だけは財閥への売却に応じなかった。竹内は、自身と関係者、並びに竹内鉱業が保有していた唐津鉄工所株のすべてを竹尾年助に譲った。工業立国の思いを竹尾に託したのだろう。大正5年(1916年)、竹尾年助を社長とする株式会社唐津鉄工所が誕生した。


(8)国際性と人材育成

竹尾年助は技術者としての理想をこの会社に実現しようとした。世界に伍する機械工業を生み出すために、当時としては異例の規模の専門家集団を唐津の地に集めた。例えば大正2年(1913年)の資料で技術者の学歴を見ると、東京高等工業卒が10名、早稲田大学卒2名、京都大学卒1名などである。この時期、機械工業界においてこれに匹敵する陣容を備えていたのは、東京大学卒10名を擁していた日立製作所くらいであったろう。しかもこれら唐津鉄工所の技術陣のうち5名は3-8年間、欧米に派遣されて技術研修を積んでいる。竹尾自身も数度の欧米視察を行っており、社内には欧米の専門誌が揃っていたので、技術者たちは世界の最新情報に接していた。

唐津に理工科大学を設立するという竹内の夢は実現しなかったので、当初考えられていた、大学教育を補佐する鉄工所としての役割はなくなったが、社内において、本格的な従業員教育が行われた。社内に「見習い学校(後の青年学校)」が設けられ、毎日、技術スタッフによる講義が行われた。高等小学校卒の少年たちには3年間の教程が実施された。製図、機械工学、工作に関する内容は当然として、それ以外にも、英語、算数、幾何、代数、物理、道徳などを含む総合的な教育であった。数学の教程には三角関数や微分積分学が含まれていた。そのいっぽうで、6年課程の「技術幹部養成コース」が設置され、主として設計分野の幹部を育てる英才教育が行われた。国際性を意識していた竹尾は、入出金伝票、製作指示書など、社内の伝票類はすべて英語で書くことを標準とした。

じっくり育てた技術陣や熟練工たちは会社の最大の財産であるから、唐津鉄工所は従業員の定年を設けなかった。ある年齢に達すると給与が減り始めるが、本人が望めば何歳になっても働くことができた。また、この会社には普通の会社にある職制がなかった。代わって等級制度があり、社員は第3級社員、第2級社員などに区分けされていたが、社長以外の社員同士は「さん」付けで呼び合った。

大正中期の工場全景(唐津プレシジョン所蔵)

(9)品質と工場運営

唐津鉄工所は、欧米の優れた機械のコピー生産に取り組んでいる。これらの機械を解体して細部まで調べあげ、図面を作成して再現製作する。しばしば、原機と寸分違わぬどころかそれを凌ぐ性能を実現した。その過程で学んだことを次の設計、製作に生かす。外部から一台の機械を受注すると、数台連続して生産することを原則とした(ロット製作方式)。繰り返しによる熟練で品質が向上するだけでなく、厳格な工程管理と原価管理によってしだいに工程が合理化され、製造原価が安くなる。このように、高品質と原価削減を常に追求した。ロット生産すると在庫が発生するが、優秀な機械は必ず売れるという信念があったのだろう。また、一部は自社用機とした。

唐津鉄工所が所有していた機械の多くは、こうして自社で作られたものである。モーター直結の機械の場合はモーターも自作された。明治42年(1909年)の創業と同時に自家発電が行われ、大正2年(1913年)には本格的な発電所が構内に建設されたが、ボイラー、蒸気エンジン、125キロワット発電機のすべてが自家製であった。研究と技術習得のため、大正2年(1913年)には50馬力の蒸気機関車も作られ、関東の常総鉄道に納品された。

自家発電所棟(現在は倉庫となっている。)

第二次世界大戦に向う頃、陸海軍からの注文が増えたが、急激な生産増は品質の劣化につながるとの判断から、竹尾は軍からの大量受注には慎重な姿勢をとった。戦時体制に入ると、生産効率を上げるために、軍は主だった機械工場に対して、製品アイテム数を絞って少品種大量生産に転じるよう命じた。多くのメーカーがそれに従って工場を改組したが、竹尾はそれを断った。日本のような狭い市場では、時局からくる一時的な要請で商品アイテム数を絞るのは危険だというのである。鉄工所の長期的な発展を考えて、戦時下でも幅広い顧客を相手にした多品種生産の基本路線を曲げなかった。

工業史の研究家である沢井実さん(大阪大学経済学部)が、戦時下の唐津鉄工所の受注品を調査されたデータがある。昭和2年(1927年)から20年(1945年)までの19年間における受注品の構成は、海軍18.1%、陸軍16.6%、その他官需2.5%、民需58.2%、自社用4.5%である。戦時下においても民間需要を重視するスタイルを維持していたことが分かる。

戦時下の受注品構成
(1927年から1945年までの
合計受注件数をパーセント表示したもの。)

戦局が悪化して本土空襲が始まると、軍は工場を守るために疎開を命じたが、竹尾は「精密機械工場の疎開は不可能」として動かず、不服従ゆえに社長職を一時追われた。硬骨の技術者魂の面目躍如である。

竹尾は、原価削減のため大きな設備投資をできるだけ避けた。自社の設備だけでは間に合わないほどの注文がある時は、完成間近な機械(商品)の試運転を兼ねて、これを別の機械の製造に使うといった離れ技も行った。後に述べる海軍向けの超大型機械の製作においても、分解工夫して、小さな機械を使って超大型機械を製作している。こうした創意工夫もこの鉄工所の底力の一部であった。


(10)大型工作機械と軍艦用工作機械

初期の唐津鉄工所は機械全般を製作したが、「工業振興の礎を築きたい」という竹尾の意思から、しだいに工作機械、つまり「機械を作る機械」、「機械工業を生み出す機械」のメーカーへと純化していった。工作機械には、一般の機械よりワンランク上の精度が求められる。まず、汎用工作機械を手がけることで基礎的な技術を蓄積した後、高度な工作機械へと向った。特に、国内最高の技術を有する鉄工所のひとつとしてその名声を確立したのは、大型工作機械と精密歯切り機械の分野である。

大型工作機械の代表は造船用機械である。三菱長崎造船所を最大の顧客として、造船用の大型旋盤、万能フライス盤などを製作した。こうして、巨大機械において高い工作精度を実現する課題に挑戦を続けた。この技術は、日本海軍の軍艦と兵器の製造に活用された。戦時下、唐津鉄工所は、三菱長崎・神戸両造船所や築地・横須賀・舞鶴・呉・佐世保などの海軍工廠から、大砲の砲身をくり抜く機械(砲身中ぐり盤)や、艦載砲の砲塔を作る機械(ポータブルフェーシングマシン)を多数受注している。

世界最大の戦艦である「大和」・「武蔵」の建造は一大事業であった。昭和12年(1937年)初め、海軍は大和を呉工廠で、武蔵を三菱長崎造船所で建造することを決定した。両戦艦には46センチ砲という世界最大の艦載砲が装備された。射程41.4キロメートル、砲身1門の重さが165トンという巨大な大砲が、ひとつの回転式砲塔に3連横並びで設置され、この砲塔が大和・武蔵に3基ずつ設置される。砲塔の回転部分の重量は1基2510トンに上り、これだけで大型駆逐艦1艘の重量に匹敵する。この主砲ならびに主砲塔を製作するための工作機械を、唐津鉄工所は受注した。

大和・武蔵の主砲用の砲身中ぐり盤は、100馬力のモーターに直結された全長64.39メートルの機械で、一本の親ねじの長さが35.86メートルというものであった。これは3部分に分解して唐津鉄工所内で極秘裏に製作され、山陰線経由の専用貨車で呉工廠まで輸送して組み立てられた。最高度の軍事機密事項だったので、製作に携わった唐津鉄工所の幹部たちも、呉工廠での最終組み立ての現場には立ち会っていない。実は、立会いの内諾を得て呉工廠に出向いたのだが、いざ入門という段になって、「入っても良いが二度と出られないと覚悟すべし」と言われ、慌てて退散したという。従って、唐津鉄工所の技術者や工員のなかで、大和・武蔵の主砲用砲身中ぐり盤の完成品を見た者はいないのである。

戦艦大和・武蔵の主砲及び主砲塔を建造するために唐津鉄工所が作った工作機械は、この種の機械として、世界最大のものであったと思われる。日本海軍の巨艦群は、こんにち、悲劇の主人公として語られることが多いが、そこに篭められた数々の技術的独創と技術者たちの努力の跡を記録し、記憶したいものである。


(11)精密歯切り機械

歯切り機械とは、歯車(ギア)を作る機械である。歯車はあらゆる機械に使われて、その性能を決める部品である。小型軽量で精密な特殊歯車は、第二次世界大戦中は軍用飛行機の部品として飛行機の性能を支えた。唐津鉄工所では戦時下、軍の求めに応じて、小型工作機械製作のための新工場を建て、歯切り機械を中心に500台を越える精密工作機械を作った。

第二次世界大戦後、歯切り機械の主なユーザーは自動車産業となった。高速高性能の変速機などに用いられる特殊歯車は、現代の工作機械技術を進歩させる原動力となっている。


(12)竹尾年助研究

竹尾年助は昭和31年(1956年)に死去した。技術者魂を貫いた経営者だった。竹尾年助と唐津鉄工所は、わが国の機械工業の進歩に大きな役割を果たしたが、軍需品の生産に関わった企業の常として、公表されなかった部分が多い。最近、鉄工所の皆さんと長尾克子さん(静岡文化芸術大学)の努力によって、その空白を埋める社史「てっこうしょのことども ―社史・前編―」(2002年刊)がまとめられた。長尾さんは、綿密な調査研究の成果を「工作機械技術の変遷」(2002年刊)にもまとめられた。いずれも、わが国の技術史研究において待ち望まれていた作品であり、本稿で紹介したことの多くも、両著書に拠っている。

唐津鉄工所の足跡と経営手法を、比較産業史的な手法で調べている方々が他にもいる。沢井実さん(大阪大学経済学部)は、戦時下における工作機械企業のあり方を、大隈鉄工所(愛知県)と唐津鉄工所とを比較しながら研究している。大量生産の要請と品質の維持とをどう両立させるかに、どの企業も悩むのだが、大隈では下請け企業育成によってこれを両立させた。愛知県を中心に60ないし100近い数の下請け企業群を持ち、それらに対する用意周到な保護育成策をとって、軍からの大量受注に応じた。いっぽう唐津では、徹底的な品質本位と自社生産路線を貫き、大量生産に対しては慎重な姿勢を崩さなかった。

鈴木淳さん(東京大学教養学部)は、唐津鉄工所と日立製作所の共通性を指摘している。共に鉱業主の潤沢な資金によって発足したが、創業期からすでに独立した機械会社を志向し、それを実現したこと、そのために高度の専門的技術者集団を形成したこと、厳格な原価計算制度を持ち、工場における工程改善と原価低減化への取り組みが進められたことなどである。いずれの指摘も、現代の経営に通じる示唆を含んでいる。

本稿を準備するにあたり、竹尾彦己さん(竹尾年助のご子息、現唐津鉄工所会長)及び竹尾啓助さん(竹尾年助の孫、現唐津鉄工所社長)に貴重なお話を伺い、資料の閲覧や写真撮影を許していただいた。ここに記して感謝します。

この連載記事を書いている時(2003年6月23日)、長尾克子さんが死去された。わが国の工業史、特に工作機械研究の第一人者であった。ご冥福をお祈りします。

唐津プレシジョン(2019年4月)

唐津プレシジョン裏手の海岸(かつて竹尾年助を感動させた美しい砂浜と松原がここにあった。今はプレジャーボートの繋留基地となっている。背景は九州電力唐津火力発電所。)

参考文献:

  • 「てっこうしょのことども ―社史・前編―」(2002年、編纂・発行:唐津鉄工所、編集協力:長尾克子)
  • 長尾克子著 「工作機械技術の変遷」(2002年、日刊工業新聞社)
  • 長尾克子著 「日本機械工業史 ―量産型機械工業の分業構造―」(1995年、社会評論社)
  • 竹岡敬温、高橋秀行、中岡哲郎編著 「新技術の導入 ―近代機械工業の発展―」 (1993年、同文舘出版)
  • 沢井実著  「戦前・戦中期日本における工作機械企業の技術と経営 ―唐津・大隈鉄工所を中心に―」(上記「新技術の導入 ―近代機械工業の発展―」 第II部第4章所収)
  • 鈴木淳著 「明治の機械工業」(1996年、ミネルヴァ書房)
  • 「ハンディ版 日本海軍艦艇写真集1 戦艦大和・武蔵・長門・陸奥」(2003年、雑誌「丸」編集部編、光人社)